2014年2月1日

目線

「こんなことされたらボロボロだな」

「え? 誰がポンコツなの?」

「ポ ポンコツ? じゃなくてボロボロ!」

「あ~自分のことじゃないの(笑) 
で 誰が?」

「お前こういうの見てる時によくそんな言葉出てくるな
正蔵さんに決まってんだろ こりゃたまらんぞ」

「あ~お爺ちゃんね… ふふふっ」

「なに 笑ってんだよ」

「ううん 何でも… ふふふっ」

「・・・?」



現在放映中のNHK連続テレビ小説『ごちそうさん』をご存知でしょうか。

私としては、昨年「じぇじぇじぇ」が流行語大賞となるなど、宮藤官九郎の斬新な脚本で大ブレイクした『あまちゃん』に続き…否、正確には三年前、当地信州安曇野を舞台に繰り広げられた『おひさま』から数えて今回で3本目となる毎日録画のお気に入り番組です。



先日、いつものように晩酌しながらその『ごちそうさん』を見ていたらこんなシーンがありました。

近藤正臣演じるヒロインの義父正蔵が持病の発作で倒れ、一旦は生死の間を彷徨いながらも何とか持ち直し、その後自宅で静養することになります。医者からは今度発作が起きたらその時は覚悟しなさいと宣告され、家族はそれぞれにどうやって正蔵に寄り添ってあげられるかを考えます。

ハリウッド俳優渡辺 謙の血を引く杏演じるヒロインめ以子の幼い三人の子どもたちも、自分が何かをして祖父正蔵に喜んでもらおうと動き出します。

長男泰介は夜遅くまで必死に勉強し、学校のテストで100点満点をとって、それを真っ先にお爺ちゃんに見せます。祖父正蔵は100点のテストを見ながら満面の笑みで泰介の頭を何度も撫で、お爺ちゃんの孫は天才だなぁと褒め称えます。

次男活男はお爺ちゃんが大切に作っていた干し柿の世話を一人で続け、食べ頃に熟したところでお爺ちゃんの部屋に持って行って一緒に食べます。祖父正蔵はこんなに美味しい干し柿は生まれて初めてだと、活男に何度もありがとうと言いながら美味しそうに食べます。

長女のふ久は、母の作ってくれる美味しい料理をお爺ちゃんと一緒に食べるんだと、夕飯のお膳を祖父正蔵の部屋に運びます。これには二人の兄弟も続き、正蔵は三人の孫と差し向かいで至福の夕飯をとります。そして、自分は最高の孫に囲まれた日本一幸せなお爺ちゃんだと幼い孫たちに嬉しそうに声を掛け、笑顔と涙の入り混じった穏やかな表情で三人の孫を見つめます。

その夜「明日の夕飯はどんな旨いもん食わしてもらえるんやろ 楽しみやなぁ」と呟きながら床に就いた正蔵は、果たして二度と帰らぬ人となってしまいます。

私はこのシーンを近藤正臣演じる祖父正蔵の立場で自然と感情移入し、顔をくしゃくしゃにしながら正蔵目線で見ていました。

皆さんは覚えているでしょうか、近藤正臣と言えば、あの『柔道一直線』で主演桜木健一の敵役となる結城真吾を演じ、鍵盤の上に飛び乗って足の指でピアノを弾いたという伝説を持つ名俳優ですよ…
あ すみません 話が脱線したので元に戻しますm(_ _)m


当然のことながら、人間はその年齢や環境に応じて、ものを見たり感じたりする目線というものが変化していきます。

テレビや映画も無意識のうちに、同世代であったり同じような境遇の登場人物の目線で見ているのではないかと思います。

それが今や私もお爺ちゃんの目線でテレビドラマを見るようになったのかと思うと多少感傷的にもなりますが、一方で少し大切なことも見えたような気がします。

それは、歳を重ねるほどに視野を広くして色んな目線からものごとを見なければいけないということです。

一般的に人は歳をとればとるほど融通が利かなくなるなどと言われますが、本当は人生五十年、六十年生きてくれば、ほとんどの男性が、少年、青年、夫、父親とそれぞれの立場を自分自身で経験するわけなので、私のように現在の目線が爺さんなら、余計にそれぞれの立場の気持ちを思いやることができて然るべきだと思うのです。
もちろん女性だって同様です。

そもそも“目線”という言葉も、「上から目線」とか「自分目線」などという言葉があるように、平たく言えば自分基準のフィルターを通したものの見方に他ならず、自分の好き嫌いを前提とした他に対する評価というのが相当ではないかと思います。

真は、そんな自分勝手なフィルターなど持たずに、ありのままの姿を自由自在に見ることができる心持ちを具えることが必要、ということではないでしょうか。



「だから 何がおかしいんだよ」

「だって 最近何見ても爺目線なんだもん」

「そりゃ ホントに爺だからしょうがないだろ
立場は爺だけどちゃんと色んな目線でもの見てるさ」

「自分をそういう目線で見てるんじゃないの?(笑)」

『…痛いとこつく奴だな』




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