2011年9月30日

『神様のカルテ』 観戦記

「櫻井翔も 思ったより良かったじゃん」

「・・・だね さすが慶応ボーイ 天下のジャニーズってもんだ
 でも やっぱり全体的にキャスティングが綺麗すぎない?」

「それはしょうがないんじゃない 映画なんだから・・・
 誰だって汚いより綺麗な方がいいに決まってるでしょ」

「汚いって・・・まあまあしょうがないね とりあえず良しとしますか」 



今年最後の信州に因んだ全国版メディアプログラム『神様のカルテ』

嵐の櫻井翔と宮崎あおいという人気若手俳優を主役に配し、当地松本市に実在する病院をメイン舞台として、その病院に勤務していた現役医師夏川草介原作の2010年本屋大賞第2位にノミネートされたベストセラー小説の映画化である。

今月初めの週末、ともにこの小説のファンであるカミさんと二人、5月の『岳ーガクー』以来となる市内の映画館に気合いを入れて観戦に赴いた。

小説の内容については昨年10月のコラム(ブレイク)でも触れているのでここでは割愛するとして、よく知る好きな小説が実写版になるというのは、まことに色んな思いが交錯するものだと我ながら感心しきりの鑑賞となった。


不思議なもので、小説などの活字本を読み進めていくと、そのストーリーに登場する人物が段々と自分の頭の中にイメージされていく。そのストーリーがおもしろければおもしろいほど、登場人物の姿かたちから声のトーンに至るまで、そのキャストイメージが自分に都合よく出来上がってしまうものである。

2009年8月発行の『神様のカルテ』初版、そして翌2010年9月発行の第2版をそれぞれ2回ずつ読んでいる私にも、当然の如く個性的な登場人物たちのイメージが、自分の好みを十分に反映させてしっかりと出来上がっていた。

ここで困ってしまうのが、自分の思い入れで勝手に作り上げたキャストが、さあ登場するぞと前のめりにスクリーンに向かったときに、そのイメージとまったく異なるキャスティングの人物が、当り前のように実写版の世界でその役を演じているのを目の当たりにしたときのガッカリ感が半端ないことである。

今回、私がイメージしていた医師栗原一止は、「うつむき加減で常に疲労感を漂わせる古風な思考を持つ変人。服装や身なりには滅法無頓着で、抑揚のない話し方をするネクラな二枚目半」だった。

封切り前、この主役を櫻井翔が演じると聞いたときは、「ちょっとイイ男過ぎるでしょ」と即効漏らしたものである。

ところが意外なことに、二枚目半がバリバリの二枚目なのと、おそらく野暮ったさを出すために当てたルーズなパーマが整った顔立ちに飲み込まれて単なるおしゃれと化したところを除いては、さすが歌に踊りにニュースキャスターまでこなすトップアイドルだけのことはある。彼は持ち前の爽やかさを封印し、私の抱いていたイメージに近い男を黙々と演じ、ストーリーが進むに連れてこれもアリかなと納得させてくれた。

宮崎あおいのハルは誰が何と言っても最初っから文句なしだった。彼女がヒロインに決まったときから私が抱いていたイメージにぴったりと思っていたが、スクリーンの中の彼女は、そのイメージ以上に愛おしく芯の強いハルの気性を見事に演じ切っていた。

本庄病院のスタッフ、吉瀬美智子の外村看護師長と池脇千鶴の東西主任看護師の二人も見ていて“らしい”キャスティングと演技で良かったし、柄本明の大狸先生に至っては、さすが名優いい味を出していた。

残念だったのは要潤の砂山次郎だ。ガサツで色黒の豪快な大男のはずなのに、これは本当にイイ男過ぎてちょっと難があった。そもそも原作では栗原一止と医大時代の同期生なのだが、スクリーンでは一止の先輩って・・・??
原作に入り込んでいると、このような設定変更を受け入れるのも中々難しい。

もう一人、原田泰造の男爵もいささか真面目過ぎた感がある。私が「男爵」という渾名に引きずられていたこともあるが、外見はそれこそお笑い芸人ひげ男爵の「ルネッサ~ンス」と叫んでいた山田ルイ53世をイメージしていたので、正直最後まで彼を「男爵」として観ることはできなかった。

おそらくこの映画のポスターを街で初めて見たとき、出演者として紹介されていた原田泰造の顔写真を見て、「おっ泰造がきっと砂山次郎だな? これはナイスキャスティングだ」などと、勝手に思い込んでいたせいもあるだろう。


とはいえ、考えてみればそんな思いもイメージも、すべて自分勝手な思い込みにこだわっているだけで、それが映画の良し悪しを決めてしまうわけでもなんでもない。

特にこの『神様のカルテ』はまさに松本市だけで撮影されたような映画で、全国的に有名な国宝松本城は言うに及ばず、一止が勤務する病院のすぐ近くにある深志神社を初め、地元住民の憩いの場である里山の城山公園やアルプス公園につながる住宅街の坂道、その高台から一望する市街地の景色など、スクリーンに登場する様々な景観は、我々にとっては何とも身近で心落ち着く場面の連続だった。

松本市は今春上映された『岳』に続き、『神様のカルテ』を松本シネマ第2号に認定した。小説の方は第2版も出版されて大ヒットしているのだから、映画の方も是非続編が制作されることを期待したい。


今年は震災の影響で各地の観光地の入込みが激減する中、当地信州ではこの2本の映画と、何と言ってもNHK連続テレビ小説『おひさま』の効果もあり、この夏季シーズン、安曇野市では前年比120%超となる約40万人、松本市でも例年を上回る20万人近い観光客が訪れたという。

3月11日の栄村大地震、さらに6月30日には震度5強の松本地震に見舞われ、全国的にはここ信州も被災地の一つと見られていたにも拘らず、これだけ多くの人が訪れてくれるのだから、現代社会におけるマスメディアの力というのは、本当に強烈なものがあると改めて実感する。 


そしてその地元に住む私はというと、今年これらの作品をしっかり見倒してきて、そのすべてに共通して再認識したことがある。それは、我々信州の人間はなんて美し過ぎる自然に囲まれて生きているのだろうということだ。

荘厳なアルプスと穏やかな里山の幻想的なコントラスト、その山々から人里に流れる美しく澄んだ豊富な水量を持つ多くの河川。

数年前、大阪に住む八十になる私の叔母が当地に遊びに来たので、私ら夫婦で安曇野を案内してあげようと車で出掛けたことがあった。その道中、ちょうど犀川にかかる田沢橋に差し掛かったとき、正面に広がるアルプスの絶景を見て、叔母が歓声を挙げ、暫し涙を流していたのを思い出す。

我々にはそんな感涙を呼ぶほどの美しい大自然を守る責任と、全国の一人でも多くの人にこの素晴らしい景観を知ってもらう義務があるとさえ思ってしまう。


その昔、長野県というと田舎の代名詞のように扱われてきたように思うが、ここ最近、環境問題に端を発しての人間回帰の風潮も手伝ってか、美しい自然環境溢れるここ信州に色んな意味で注目が集まっているのは事実である。

せめて当地に生きる我々は、そんな信州の良さをもっと知り、自然と共生する意思と正しい術を持って生きて行きたいものである。



「オープニングでハルがカメラを構えてた山はどこなの?」

「美ヶ原じゃないかな」

「え~ 美ヶ原にあんな絶景見られるとこあるの?」

「たぶん俺たちが知ってる美ヶ原なんてホンの一部だよ・・・
 プロのカメラマンが正月に美ヶ原に張り込んでご来光を撮るって話はよく聞くし
 信州の本当の自然を知ろうと思ったら 俺たちには一生かかっても無理かもよ」

「そうか・・・じゃあんたは厳しい山に登って! 私は知られざる秘湯を回るわ!」

「・・・何で別々?」