2010年12月31日

今年の重大ニュース2010

「おいおい なんでロスタイム4分もあんだよ?」

「ヤバいじゃん・・・」

嫌な予感が的中 同点に追いつかれる

「ありえねー!!」

「ちょっとPK戦途中じゃん! 何で放送終わっちゃうの~?」

「・・・ホント ありえねー!!」

大掃除の手を止めて カミさんと娘と共にしばしTVに釘付けになっていたが
ありえない展開の連続で疲れ切ってしまい・・・ あとは来年回しに・・・

全国高校サッカー選手権、わが母校と滋賀県代表野州高校との対戦は、後半20分まで4対1でリードしながら、残り20分プラス信じられない長さの4分というロスタイムの間に、結局5対5の同点に追いつかれてタイムオーバー、そして誰もが「入れてくれー!」「止めてくれー!」と食い入るように見つめながら、3人ずつ成功というまさに緊迫した場面で放送が終了してしまうという前代未聞のPK戦の末、どうやら14年ぶりの初戦突破ははかなくも夢と消えたようだ。

とりあえず今春娘が卒業してすでに直接的な関連はないとは言え、キーパーが中学時代の同級生の息子だったり、昨年のPTA仲間の息子がメンバーだったりと、やはりまったく無縁ではなく、自然と力が入ってしまう母校の試合だというのに・・・まったく言いたいことは山ほどあるが、まあ終わってしまったことを愚痴っても仕方ない。



それにしても昨年の大晦日は、同じ選手権の母校の試合を寒風吹きすさぶ埼玉スタジアム2002で応援していたんだなぁと、画面を観ながら感慨深く思い返していた。

一年は早いなー ホント早い・・・誰も待ってはいないだろうが、今年も我が家の重大ニュースを公表する日がやってきた。


「娘に初彼氏出現!」

今年4月に専門学校に進み、東京蒲田で一人暮らしを始めた彼氏いない歴18年の長女に、なんとなんと初彼氏ができたとのこと。オヤジとしては正直複雑な思いもあるが、いい恋愛は人間を成長させてくれるものと信じ、そして我が娘の男を見る目を信じ、余計なことは言わずに見守ることとした。

しかし、夏に息子二人を連れて飲みに行った席、カミさんの携帯に送られていた妹の彼氏の写メをみた兄貴二人は、口をそろえて『こりゃないわ』って・・・おいおい不安なリアクションとるなよ・・・と忸怩たる思いを不自然な笑みで隠しながら、まあ写真写りはともかく、娘が好きになる男なんだから大丈夫・・・なはず・・・と、自分を納得させる日々を過ごしていたのである、否、いるのである。


「ワンピースを大人買い」

暮れも迫った師走のある日、いつものように家で一杯飲りながら、大ベストセラーとなっているおなじみのアニメ『ワンピース』の前日発刊された第60巻が、あっという間に全国で1,500万部も売れたという、その日車中のラジオで聞いたニュースを何気なく次男坊に話したところ、それまでもくもくと飯を食っていた息子が急に目を輝かせながら、ワンピースはストーリーが本当に奥深いんだと熱く語り始め、これは大人子どもに関係なく絶対感動するからお父さんも読んだ方がいいなどと、NTTコミュニケーションズ代理店の営業さながらの語り口で薦められ、その勢いとこちらのホロ酔い気分も手伝って、1巻からその60巻までの新品セットをネットで購入することになってしまった。

ファンの方からは「あんた読んだことないの?」と逆にお叱りを受けそうだが、私は二十歳を過ぎた頃から、マンガにはほとんど興味がなくなっており、ワンピースはもとより、ドラゴンボールもこち亀もまったく手にしたことがないのである。

そうこうしているうちに、年末大掃除に入ってしまった私は、30日に届いた段ボール一箱のその珠玉の単行本60冊には全く手つかずでいるのだが、粗方の予想通り、してやったりの次男坊を筆頭に、帰省した長男長女も大掃除の手伝いもそこそこに、それどころか本来大好物なはずの年末お笑い特番にさえ目もくれず、三人そろって無言のまま朝方まで読みふける年末になってしまったようである。

呆れ顔のカミさんが一言

「ホント 迷惑なお年玉あげたもんだわ・・・」

・・・まったく返す言葉もない


「銀婚式にサプライズ」

今年9月のコラム(アニバーサリー)でも触れたように、私ら夫婦は今年結婚して25年目の銀婚式を迎えた。だからと言って改まって二人で何かしたわけでもないが、これまた年末に思わぬサプライズが待っていた。

毎年恒例、家族全員がそろい、互いの両親も招いて、ちょうど紅白歌合戦が始まる頃から行うお年とりの宴席を始めようとしたそのとき、2階から下りてきた次男が唐突に私の前にきれいにトッピングされた小箱を差し出した。

そして一言 「銀杏式おめでとう!?」

カミさんと私は顔を見合わせ一瞬の沈黙、そして家中が爆笑と歓声に包まれた。

小箱の中身はというと、子ども三人の名前が入った「銀婚式おめでとう!」の素敵なメッセージカードが添えられた、センスのいいシックなカラーの切子のペアグラス。
おそらくは9月のコラムを読んだ長男が仕組んだ子どもたちからのプレゼントだった。

まったく予期せぬサプライズに私ら二人は大層感激し、もし長男の描いたシナリオ通りにことが進んでいれば、私もカミさんも思わず涙ぐむなんてシーンが観られたのかも知れないが、次男が兄貴から演出を指示されたときに「ぎんこん」を「ぎんなん」と聞き間違えたのか、それともいざセリフを発したときに「ぎんこん」を「ぎんなん」と言い間違えたのかはともかく、そのいかにも次男坊らしい最強のNGが、全員を感動の渦以上の笑いの渦に巻き込んでしまったのである。

しかし、手前みそな話で恐縮だが、そんな演出もアドリブもすべて含めて、私ら二人がどんなに心癒され、こどもたちに感謝したかは言うまでもない。

みんな優しい人間に育ってくれて本当に嬉しい限りである。



子どもたちが次々と巣立って行き、夫婦二人だけの時間が再び増えつつある年代に差し掛かり、これからの人生をいかに過ごしていくかを二人で考え、話し合う機会も増えてきました。

また大人への階段を上りつつある子どもたちとの話題は、恋愛や結婚を通した家族のあり方みたいな話、そして夢や仕事を通した生きがいみたいな話が明らかに多くなってきました。

そんなやり取りを通して、子どもが成長すればするほど、私自身が大人として、男として、改めてきっちり生きていなければならないと思うと同時に、親である私ら夫婦が、健康で人生を楽しんでいることが大切であることを子どもたちに認識させてもらいながら、また今年一年をじっくり振り返ることができました。


そして今年もまたこれを書いているうちに年が明けてしまいました。
2011年が良い年になることを祈念して、焼酎のお湯割りでも舐めながら『ワンピース』とやらを開いてみることにします。

今年も一年間ありがとうございました!  皆さん 良いお年を!


「ぎ、銀杏式って言った?」

「え? なに?」

「銀婚式だよ」

「・・・だからそれって なに?」

エエーッ!?・・・おまえは・・・まあいい とにかく ありがとう!

2010年11月29日

アドバイス

「今月お前の自動車保険更新だから 母さんに保険料渡しとけよ」

「エッ? ・・・いくら?」

色白の次男の顔から もともとわずかしかない血の気が引いてゆく 

「確か7万くらいだったな」

「ゲッ! ・・・やばっ」

その顔色は 三日ほど徹夜でもしたかのように更に青白くなった


「なんだ 予定してなかったのか・・・ どうすんだ?」

「・・・」

「金なかったら 立替えとくから母さんに分割で返しときな」

「あ、ありがとう」

「お前も自分の車持ってもう2年近く経つんだから 何がいついくらかかるか
維持費くらい把握しとかなきゃいかんだろ? 
ちゃんと予定して その金をどうやって払うか 責任もって計画しなさい」

「分かった・・・ 今回はお願い・・・します」

頬にいくらか血色を取り戻し 息子はそう言いながら軽く頭を下げた



とは言うものの、私が息子と同じ二十歳の頃は、保証人になってくれる後ろ盾がなかったこともあり、中古車屋に言われるままに36回のマル専手形を切って車を手に入れたはいいが、それこそ維持費を把握するどころか、その手形を落とすのに毎月四苦八苦しながら生活し、ガソリンスタンドでは「レギュラー満タン!」の一言さえ言えなかったものである。

オヤジの立場になって子どもたちに分かったようなことを言ってるが、以前は言った後で 『そういうお前はどうだったんだ? そんな偉そうなこと言えるのか?』と己を振り返り、ちょっとした自己嫌悪に陥ることも少なくなかった。


しかし、何年かオヤジを経験するうちに、やっぱり親は子どもに対して分かったようなことをちゃんと言わなきゃいかん、と考えるようになっていた。

自分が過去にできなかったこと、分からなかったことを人に教えたり諭したりしてはいけないなんて言い出したら、それこそ誰一人、相手に対してものを言うことができなくなってしまう。

特に親子間では、親が若かりし頃できなかったことでも、子供に対しては「そうしなさい」「こうすればいいんだよ」と繰り返し教え諭すことで、知らずして親自身の包容力が育まれたり、日常の所作が変わったりする。それは、子どもに諭すことイコール自分をチェックすることになるからだろう。

子どもが親をホンモノの大人に成長させてくれると言われる所以でもある。

但し、そうなるために忘れてはいけない条件が一つある。それは、相手のことを本気で思いやり、相手の立場になって分かったようなことを言うことだ。

自分が気に入らないとか、ストレスのはけ口として怒鳴り飛ばすなんてのは論外・・・と言いたいところだが、私の周りでもそんな光景を目や耳にすることがまだまだ多い。

また、相手の立場をどう捉えるかはこちらの主観なので、ここにも相応の注意が必要になる。自分の描く相手の立場というものが、自分勝手な思い込みであってはならない。

そうなってくると、自分が発した言葉に対して「俺はどうなんだ?」と自問自答することは、ある意味とても重要なことかもしれない。自己を振り返ることで、それが相手にとって本当に大事なことかどうかを我がこととして捉えることができるからだ。

今発した一言が、相手の成長を願うアドバイス(助言)なのか、自分の気分を満足させるためのコンパルション(強要)なのか、そこの違いが受ける側にとって、心に浸み込み言葉となるか、まったく受け入れられない言葉となるか、いずれにしても真逆の結果をもたらすのである。

そして、残念なことに後者に終始する人ほど、それが自分本位のコンパルションであることに気付かず、おまけに「あいつはいくら話しても全然言うことを聞いてくれない」などと嘆く。

至極当然のことである。言ってる自分を満足させるための言葉を一所懸命並べたところで、受ける側がそれを聞き入れるはずはない。親子でも、先生と生徒でも、友人同志でも、そしてビジネスの世界でも、そこに例外はないと私は思う。



この11月、川崎会計事務所は新年度を迎えました。
法人としては第25期、通算31期目に突入です。

今期の基本方針は「経営監査の実践」です。これは、会計事務所の本来業務である税務代理、税務書類の作成等において、関与先企業の法的防衛を確保すべく、質の高いサービスを継続的に提供することは当然クリアすべき業務であると認識したうえで、現在最も求められる関与先企業の経営支援を標準業務として実践することを目標とする方針です。

この「経営支援」という業務には、会計事務所としての立場での様々なアドバイスやサゼッション(提案)が当然に求められると思います。

あくまで我々の立場で行う支援業務は、正確な会計帳簿から導かれる営業実績の推移や予測、加えて資金繰り実績等を中心とした業績報告。そして、過去実績と将来の経営ビジョンに基づく経営計画の策定などが主となります。

私たちは、この業績報告については原則毎月、経営計画については単なる翌期の予算だけでなく、必要に応じて中期経営計画や経営改善計画策定の支援を積極的に実践することを目標に掲げました。

ただ、経営コンサルタントではないので『こうすれば儲かる』的なアドバイスはできませんが、関与先の皆さんの健全な発展そのものが、私たちの喜びと思わずにはいられない域にまで達することを目指し、皆さんに対して我がこととしてのアドバイスができるよう、しっかり取り組んでいきたいと思います。



「お父さん 来年3月車検なんだけど いくら位かかるかな?」

「お前の車なら特別な修理がなきゃ 12万ってとこかな」

「うっそ! そんなかかるんだ・・・ 自動車税って5月だよね?」

「そうだな お前の車は34,500円だ」

「お父さんってさぁ 何でそんなに税金のこととか詳しいの?」

「何でって・・・(こいつまだオヤジの仕事を知らんのか?)
 まあ お前が自動販売機のメンテや修理ができるのとおんなじだ

 そうだ どんな自販機で飲み物買うのがいいか アドバイスしてくれよ」 


「自分の飲みたいヤツ売ってる自販機が一番じゃね?」

「・・・ごもっとも!」

2010年10月30日

ブレイク

「・・・おお また一気に読んじゃったな~」

「相当はまってるよね そんなにおもしろい?」

「ああ 文章のテンポが小気味よくて つい入り込んじゃうな」

「あたしも読むから 次 貸してね・・・」

「君には多少難解な言葉が多いかもしれぬが 頭をひねってしっかり読みたまえ」

「おたくは“栗原一止”かい!」



昨年発刊された初版が36万部突破のベストセラー、今年、全国の書店が選ぶ2010年本屋大賞で第2位に輝いた「神様のカルテ」。すでにお読みになった方も多いと思うが、地元信州松本の大学病院に勤務する現役医師、夏川草介原作の秀作である。

今月、その続編「神様のカルテ2」が発刊されたとあって、初版ですっかりファンになっていた私は、早速近所の本屋へ跳んでいって調達し、その日のうちに読み切ってしまったという件である。


この物語は、松本市の本庄病院という地域医療の一端を担うそこそこ規模のある病院に勤務する内科医・栗原一止(くりはらいちと)が、多忙を極める地方病院の日常で、多くの患者や病院スタッフ、そして同じアパートの住人や山岳写真家である愛妻ハル(栗原榛名)との数々のふれあいを通して、本物の医師とは何ぞやという命題に真正面から向き合い、悩みながらも徐々にその真意を掴んでいく過程を綴った小説である。

読んでいて心地のいい巧みな文章表現と、クラシックで豊富なボキャブラリー、そして何より文中に登場する風景やらお店やらが、よく知る地元の実在するものであることが、脳裏に映し出す情景の現実感をより鮮明にしてくれるので、カミさんに言われるまでもなく、私はすっかりはまっていたのである。


ストーリーのメイン舞台となっている本庄病院は、実際は松本市本庄に所在する相澤病院という地元市民なら誰もが知っている中堅の総合病院だ。

実はこの病院とウチとはなぜか縁が深い。ウチの主治医というわけではないのだが、私が20歳のときに肺気胸を患って一週間ほど入院したのがこの病院であり、娘が4歳のとき交通事故に遭って救急車で緊急搬送され、右足骨折で約一月半の入院生活を送ったのもこの病院である。さらにその娘が高校3年のとき、帰宅途中自転車で交差点を渡っていたところを突っ込んできた車に接触され、大した怪我はなかったのだが、人生二度目の救急車で運ばれたのもやはりこの病院だった。

従って本庄病院、否相澤病院は、文中にも紹介される24時間365日対応という救急病院として、ウチにとっても非常に身近な存在なのである。

そんな「神様のカルテ」の映画化が決まり、来年秋頃に封切りされることになった。

実写版でこの物語を見ることができるというのは、地元の人間として、また一ファンとしても嬉しい限りである。すでに松本城や四柱神社、それに中信松本病院などで行ったという松本市内でのロケも終え、先月無事クランクアップしたそうである。

キャスティングもまた興味深い。主人公栗原一止に嵐の櫻井翔、妻のハルには宮崎あおいという、今をときめく超人気若手俳優の共演である。これは大ヒットすること間違いなし。ひょっとして日本アカデミー賞あたりに名を連ねる可能性もありそうだ。

主演の櫻井翔が、クランクインの1ヶ月以上前から深川監督や原作者の夏川草介と何度も話し合って役作りをしたり、実際に病院で医療の最前線を見学するなど、かなりの精力を注ぎ込んで完成させた作品だと報道されている。いずれにしても来秋の公開が本当に待ち遠しい。


映画「神様のカルテ」をきっかけに、来年は地元松本がきっとブレイクするぞ~と一人で興奮していたところに、今度は大河ドラマと並ぶNHKの顔、朝の連続テレビ小説で、安曇野と松本を舞台にした「おひさま」というドラマが来春放送されるというニュースが飛び込んできた。

この物語は戦争をはさんで日本人が生き抜いてきた昭和という激動の時代に、人々をその名の通り太陽のように明るい希望で照らした須藤陽子という一人の女性の一代記である。地元安曇野の清らかなわさび畑やそば畑、そして地元が誇る信州そばがストーリーの重要なエッセンスになっているそうである。

そしてまたこちらのキャスティングにも目を見張るものがある。通常ヒロインはオーデションが定番の連続テレビ小説には珍しく、今回のヒロイン陽子役には、多くの映画やドラマで活躍する売出し中の人気女優井上真央が一点買いで抜擢された。そして現代の陽子とドラマを通してのナレーションに若尾文子、陽子の姑母役には樋口可南子というソフトバンク犬のお父さんのCMコンビが共演(ってそれは関係ないか)、さらに地元まつもと市民芸術館の芸術監督、串田和美が陽子の姑父役で出演する。

サラリーマンの私らには、平日朝、昼の放映を視聴することはできないが、多くの固定ファンを持つ連続テレビ小説にこのキャストなので、こちらも全国区の人気ドラマになることを祈りたい。

長引く景気の低迷によって、なかなか活気が戻らない地域経済。そんな閉塞感漂う暗い状況が、メディアの影響力によって一変することも少なくない。

今年放映された同じNHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」の大ヒットにより、水木しげるの故郷鳥取県境港市の「水木しげるロード」には、この8月までに180万人近い観光客が訪れ、平成5年のオープン以来、現時点で既に年間最高を記録したそうである。同市観光協会では「ドラマ効果が想像以上に大きく、このままいくと今年は250万人を突破しそうな勢いだ」と伝えられている。


映画「神様のカルテ」連続テレビ小説「おひさま」、この信州を舞台とする二つのドラマによって、来年は明らかに信州ブレイクの予感がする。もちろんそれだけですべてが良くなるわけではないが、地元の活性化にとってチャンスであることは間違いない。

行政を中心として信州の良さを上手くアピールして、相乗的な経済効果を生み出し、地元に活気と元気を是非とも取り戻して欲しいものである。



「宮崎あおいはしっくりくるけど 櫻井翔ってどうよ?」

「ちょっといい男過ぎるかな・・・」

「だよね~ ちょっとイメージ違うよね~」

「でも今回はイメージ通りのそこそこの役者より 櫻井翔で全然OK!
 老若男女を問わず とにかく思いっきり売れてもらいましょう!」

「おたくは配給会社かい!」

2010年9月30日

アニバーサリー

「ねえねえ 8月31日に振り込まれてるこの13,000円って何?」

神妙な表情で預金通帳を眺めていた我が家の財務大臣のチェックが入った

「・・・な 何て記帳されてるの?」

何もやましいことはないが 不意を突かれ 少々焦って返した

「え~っと 『マツモトシキンロウシャキョウサイ?カイ?』・・・」

「『松本・資金・老者・恐妻?かい?』って・・・どこで切ってんの

『松本市勤労者共済会』っていうの それ銀婚式のお祝い金だわ」

「へぇ~ すごいじゃん 銀婚式 ・・・って誰の?」

「・・・ウチですけど」

「あら・・・」



正式な結婚記念日は、おそらく1985年5月18日だと思うが、私とカミさんの間では1985年6月1日ということになっている。

私らは今から25年前の5月18日に新婚旅行を兼ねたハワイの教会で二人だけの結婚式を挙げ、その教会から結婚証明書を頂いた。そして帰国後の6月1日、以前私が勤めていた駅前のホテルで、親しい友人やお世話になった先輩方、そして職場の同僚などをお誘いして、80名ほどのこじんまりとした立食パーティを会費制で行い、内々だけの結婚報告をさせていただいた。

私に男としての甲斐性がなかったばかりに、ちゃんとした披露宴も挙げられず、カミさんには白無垢も着せてあげられなかったが、それが当時の私にできる精一杯のセレモニーだった。

親兄弟や親戚にもずいぶん不義理をしてしまったが、そんな形を寛容に認めてくれ、後押ししてくれたカミさんのご両親には心から感謝している。

ただ、正直私ら二人にとってそのパーティは、ホテルのスタッフを始め、多くの仲間の力強い支援と大きな友情に包まれた忘れることのできない素敵なひと時だったので、どちらから言うこともなく結婚記念日は6月1日になっていたのである。


そんな私たち夫婦も今年銀婚式を迎えていた。

事務所で加入している松本市の勤労者共済会から銀婚式のお祝金が給付されるということで、ウチの優秀な総務担当者に申請してもらい、ありがたく金一封をいただいたというわけだ。

因みにこの勤労者共済会だが、冠婚葬祭はもちろん、傷病見舞金や子どもの義務教育入学、卒業への祝金給付などを初めとして、生活資金の融資制度や提携保養施設の特別価格利用など、上手く活用すればサラリーマンにとってはなかなか幅広いサービスが受けられる嬉しい共済制度である。

加入している企業さんも多く見受けられるので、従業員さんにこういった給付制度の申請もれなどがないか、一度チェックしてみることをお勧めしたい。
(http://www.ma-kyousaikai.jp/)


ところで、「結婚記念日」を祝うという習慣の発祥地はイギリスとされているが、日本では明治27年に行われた明治天皇の銀婚式「大婚25年祝典」というのが始まりと言われている。

欧米では結婚1年目から60年目までの間、20年目までは1年ごとに、そして21年目以降は5年ごとに結婚記念日に名称が付けられ、その名称に因んだ贈り物をして祝うのが欧米風の慣習として定着しているという。

クリスマスもバレンタインも、めでたいことは何でも取り込んでしまう日本らしく、結婚記念日に対する欧米の慣習もやっぱり取り込んで、その中で最も定着したのが結婚25年目の銀婚式と50年目の金婚式というわけである。

巷では、銀婚式にはシルバーをあしらったアクセサリーや銀のスプーンなんかを伴侶にプレゼントするのが定番らしいが・・・ とりあえずそこはオフレコにしておこう。


しかし、さすがに25年という歳月は、物体としての人間の姿をこうも見事に変えるものかと言いたくなるくらいに跡形もなく変化させてくれるものである。

ちょうど今、私はリビングのソファに座り、腹の上・・ではなく太腿の上にパソコンを乗せ、黒霧島を舐めながらこのコラムを書き進めているのだが、隣のソファには家事を終え、風呂から上がったスッピンのカミさんが愛犬のトイプーを股座に寝かせ、同じような顔をして気持ちよさそうに寝息を立てている。

この光景は今でこそ日常とはいえ、25年前には私にも決して見せなかった姿であり、それこそ他人様には到底お見せできない状態なのだが、その無防備に安心しきった寝顔におそるおそる近寄って改めてよく見ると、このシワやシミの半分は俺の責任なのかななんて殊勝な気持ちになったりして、そう思えば目の前のおぞましい表情にも愛おしささえ覚えるものである。

目に見える人間の姿は、年月を経れば当然に老い衰える宿命なので、そこにいつまでも変わらぬ若さなんてのを求めるのは相当に無理がある。

せめて目に見えぬハートの部分では、重ねた年月の分だけ強い信頼と感謝の気持ちでお互い繋がっていたいものだ。

まあ25年前には見せられなかった姿を平気で見せられるようになったり、お互いに相手の前では無防備で安心していられるというのがその証と言えるのかもしれないが、物質的な相手の存在は空気のように受け入れ、精神的には相手の存在をしっかり認めているというのが理想的な夫婦の姿なのかなと思う。


私らの結婚記念日から遡ること5年、1980年の6月川崎会計事務所は誕生した。
川崎浩所長若干25歳での税理士事務所開業である。さすがにただものではない。
(詳しくは事務所HP「■業務案内」で)

従って、今年ウチの事務所は創立30周年を迎えたわけである。

私はそのうちの26年をともに歩ませていただいた。振り返れば本当に様々な経験をさせてもらったが、時の経つのはなんと早いものかと感じる。

10周年、20周年の時は、顧客の皆様をお招きして、記念講演会とささやかな懇親会などを開かせていただいたが、今回は年明けに講演会&セミナーを開催し、参加していただいた皆様にちょっとした記念品を進呈する予定にしている。

こんなご時世でもあるので、あまり派手なことはせずに、日頃お世話になっている顧客の皆様への感謝の意を示しましょうというのが我々所員の共通の思いである。

そして企業の寿命は30年と言われるように、事務所も今大きな節目を迎えている。

これまでの30年間でも会計事務所の仕事は激変したと言われている。確かに算盤は電卓に、伝票やルーズリーフはすべてパソコンに移行された。しかしそれは単にツールや方法が変化しただけで、本来会計事務所が果たすべき使命や職責は何も変わっていないと私たちは認識している。

そのうえで顧客の皆さまからさらに期待され、さらに信頼されるパートナーとなるために、これまでの事務所の仕事を再点検し、自ら変化、いや進化させていかなければ生き残れないというのも所員共通の思いである。

クオンプというウェブサービスを利用して、今年から取り組んでいる新しいビジネスモデルもあるので、ひょっとしたら『今までとちょっと違うな』と感じておられる経営者の方もいらっしゃるかもしれない。

私たちは30周年の今年を川崎会計第一章の終着、そして31年目となる来年を第二章の始発と捉え、その第二章では、顧客の皆様に提供する標準的なサービスのハードルを更に高みに上げることで、健全な事業経営に役立つ付加価値を広げていくことを目標に、進化する事務所を目指して動き続ける覚悟である。



ブッ! プップップップッー ププップー・・・ プリッ!

「ちょっと~ FAXみたいなおならやめてよ もう~」

「何十年も聞いてりゃ 俺のおならにも飽きただろうと思って
 ちょっとバリエーション変えてみたんだよ」

「そんなもんにバリエーションなんかいらんわー!」

これが25年連れ添った夫婦の日常(・・・ってウチだけ?)

何でも変えりゃいいってもんでもなさそうだ 

2010年8月28日

反面教師

「おーい」

バスを降りると ちょっと先にきょろきょろする長男の背中が見えた
隣には一緒に連れて来ると言っていた彼女らしき女性の姿

「あ~ よかった やっぱり道が分からなくて・・・」

私らと長男の彼女との初対面は 松本城にほど近い道の真ん中だった

「こんにちは~」

「は、初めまして・・・」

「・・・まっ すぐそこだから とりあえず行こう」

残暑厳しい夕暮れ時 挨拶は後回しにして
待ち合わせていた なじみの店に向かった



お盆も仕事で帰れないと言っていた東京で暮らす長男が、やっと夏休みがとれたからと今週帰郷した。 が、今回は、今お付き合いしている彼女と二人で信州をプチ旅行するというおまけつき・・・ もとい おまけはウチに帰るほうで、二人にとっては旅行がメインであった。

それでもせっかく彼女が一緒だから我々家族に紹介したいというので、その日しかないというその晩に、息子が帰省するといつも行くなじみの居酒屋(2010年4月「気づきは才能?」)で会うことにした。


実は、息子から彼女を正式に、というか改まって紹介されるのは、私にとっては初めてのシチュエーションだった。

学生の頃から一般的な男子程度の恋愛はそれなりにしてきただろう息子たちは、時々彼女をウチに連れてきたりもしていたので、顔を合わせれば普通に挨拶くらいは交わしてきたが、当時はこっちもオトモダチの範疇としか見ていなかったから、仲良くやれよと応援こそすれ(2009年1月「恋愛応援団」)当然にそれ以上立ち入ることもなかった。

しかし長男も今年24歳、同級生や歳の近い従兄が結婚するなんて話も聞かれるようになり、将来を見据えての恋愛をする年頃になったことは事実である。今までのようにただ一緒にいて楽しい程度の付き合いとは違うことを、当の本人も十分意識した上での紹介だと私たちも受け止めていた。


彼女は九州鹿児島の出身で、今は同じ東京で働く一つ年上の女性。

素朴なご当地訛りが混じるハキハキした元気な声と明るい表情
<明るく元気は基本中の基本  問題なくファーストステージクリア!>  

中学でソフトテニス、高校で硬式テニスをやってきたスポーツウーマン
<カミさんと娘と全く同じ経歴にビックリ 勢いでセカンドステージクリア!> 

私とカミさんの天然めおと漫才に大受けにウケてくれて大爆笑
<ハラからよく笑う人に悪い人間はいない 当然サードステージクリア!> 

九州の女らしく見事な飲みっぷり 息子より確実に・・・強い
<親父としては殊更に気に入った 独断でクオーターファイナルクリア!> 

彼女の鹿児島のご実家には何と天然温泉が湧き出しており、父上が経営する建設会社の一事業部門として、その良質の温泉水を利用した『美豊泉』という天然水と、同名のオリジナル芋焼酎を製造販売しているという。

(今年の父の日に、私はその焼酎『美豊泉』の化粧箱入2本セットを二人から贈ってもらっていた。鹿児島の芋にしてはクセがなく、逆にまろやかで飲みやすいと思っていたのだが、温泉水で醸造しているという彼女の話を聞いて納得。独特なパンチの利いた芋焼酎が好きな方には少し物足りないかもしれないが、天然温泉水の上品な焼酎を是非一度お試しいただきたい。詳しくはこちらで http://www.bihousen.co.jp/)

焼酎に温泉と、私ら夫婦の一番弱いところを突かれ、セミファイナルもクリア!

ほどなくして仕事を終えた次男も合流し、改めて乾杯。こっちがいい具合に盛り上がっていたこともあろうが、待ってましたとばかりに彼女がドンドン次男に話しかけてくれるのですぐに打ち解け、酒宴は楽しい笑い声に包まれ、和やかな雰囲気で佳境へと入っていった。


そして ファイナルステージ

わずか数時間だが、ともに過ごした宴の中で、彼女が息子を思ってくれる気持ちが本物だと感じた私は、単刀直入に訊いてみた。

「こいつのどこに惚れたの?」

「家族を大切にするところです!」

彼女は、私らが背筋を正すほど、迷うことも照れることもなくはっきりと答えてくれた。

そして、彼女にそう思わせた息子のエピソードを縷々話してくれたのだが、その話に耳を傾けながら、ウチの息子の一番いいところをしっかり見てくれている彼女を、私らもすっかり好きになっていた。

家族を大切にする人が好きということは、自分も家族を大切にする人だということ。

互いに支え合わなければ生きていけない人間の健全な信頼関係のベースは、言うまでもなく家族という最も身近な組織の中で育まれる。

そして、友達、同僚、先輩後輩、地域社会の人々・・・ これらすべての環境の、すべての人々との人間関係は、その家族の中で自分がどのように生かされてきたかによって構築されると言っても過言ではない。

息子も彼女も、人が生きていくうえで本当に大切なことをしっかり認識した大人であることが、私には何より嬉しかった。

「弟も兄貴と同じくらい家族思いなんだけど どうしてだと思う?」

「・・・どうしてですか?」

「それはね 母親がこいつらの胃袋をガッチリ掴んできたから」

「・・・?」

「子どもたちが生まれてからずっと お母さんが手を抜かずに手料理を食べさせてきたからなんだ そんな当たり前のことを毎日やってきただけ でもそれだけで十分 それがすごいことなんだ 家族にとって・・・ 
口にはしないけど 家族全員それがどんなに有難いことか分かってる その母親に対する感謝の気持ちが こいつらの思いやりの原点なんだよ」

「・・・そうなんですね」

半分 『だから君もね』という期待を込めて老婆心なことを言ってしまったが、そんなオヤジの意を介し、にっこり頷いてくれた彼女の笑顔に何とも温かい思いやりを感じながら、息子が自信を持って「彼女を紹介したい」と言った真意がよく分かった。


親は、子どもがどんなパートナーを連れてくるかで親としての自分を評価することができるような気がする。万が一、自分の子どもが本当にろくでもない半端もんを彼氏だ彼女だと連れて来たら、それは親としての責任を十分に果たしてこなかった自分に原因があると考えた方がいいかもしれない。

なぜなら、親にとって子どもは一生『鏡』の存在、最高の『反面教師』だからである。



「お前 いつの間にそんなに上手くなったのよ」

異様な盛り上がりの勢いで飛び込んだ二次会のカラオケボックス
ここで次男の予想外の歌声に全員が驚かされた

「いつの間にって 大体ちゃんと聴いたことないじゃん」

そういえば子どもとカラオケなんて十年以上来てなかった

親の私が言うのも何だが 次男の歌は一聴の価値がある
今からでも遅くはない ストリートからでもやればいいのに・・・

「ところで兄貴の彼女はどうよ?」

「いいんじゃね・・ってか 母さんに雰囲気似てるよね」

「だよな~ お父さんもそう思ってたんだよ」

長男の歌に カミさんと彼女二人の息の合った手拍子と掛け声が響く

「・・・ってことは 間違いないな?」

「・・・だね」

すべてクリア! ということで今後ともヨロシク!

2010年7月31日

奇跡の裏付け

「えっ? 取ったの? うわー取ってるじゃん! スッゴ~い!!」

ゲームセットと同時に 毎度おなじみカミさんの雄叫びが響き渡った

「いやいや ホントに勝っちゃったかぁ~ しっかしすごい試合したな~」

こちらも鳥肌ものの好試合に 興奮冷めやらず暫し動けなくなっていた

「これって球史に残るってやつだよね きっと…」

「あったりまえだのクラッカーだな(古っ)
こんな試合ここ最近記憶にないよ
それにしても敵ながらいいチームだったなぁ~
早速あいつに祝福のメールでも入れといてやるか…」



高校野球夏の甲子園 当地長野県の決勝はなんと60数年ぶりの松本決戦。

突然ですが みなさんはご存知でしょうか?

今から14年前、ここ松本市をロケ地として、TOKIOの長瀬智也と酒井美紀の主演で大ヒットしたテレビドラマ「白線流し」

男子は学帽の白線を、女子は制服のスカーフを、固く結んで一本の紐にして川に流し、学生時代の仲間たちとの永遠の絆を誓う卒業の儀式。その発祥の地といわれる岐阜県高山市の斐太(ヒダ)高等学校では、学校前を流れる大八賀川で70年以上前から今でも毎年行っているそうである。

そのドラマの中で白線を流す舞台となった信濃川水系の一級河川“薄川(ススキガワ)”

標高2千メートルを超す美ヶ原を水源として、松本市の中心部を縦断するように流れる薄川は、決して大きな川ではないが、春は両岸3km近くにわたって咲き乱れる満開の桜に囲まれた川原がお花見のメッカとして、秋は多くの学生や市民ランナーが、一直線の堤防道路をマラソンやトレーニングのコースとして利用するなど、一年を通して市民の憩いの空間として愛されている。

そんな“薄川”を挟んだ南北の対岸に向き合うように位置し、直線距離にしたらおそらく2~3百メートルしか離れていない二つの高校がある。それが今回の決勝戦にコマを進めた松商学園と松本工業だ(いい話は実名でいかせてもらいます)

夏の甲子園35回出場を誇る松商は我々夫婦の母校、一方悲願の初優勝初出場を目指す松工はウチの長男の母校。この試合、我が家にとってはこれ以上ないドストライクのシチュエーションなのである。

前評判ではやはり伝統の力を持つ松商優勢の声が大きかったが、プロのスカウトも注目する今大会屈指の右腕投手柿田を擁し、1試合ごとに台風の目として注目を集めた松工に、ひょっとしたらと思っていたファンも相当数いたのではないだろうか。

とにかく、ここまでの松工の勝ち上がり方は半端なく神懸っていた。

春の大会ベスト8で今大会のシードを勝ち取った松工は、初戦の2回戦伊那北高校戦で予想外の大苦戦。1対2の9回裏ツーアウトから同点に追いつき、延長11回裏1番倉田のタイムリーで何とかサヨナラ勝ちを収める。

続く3・4回戦は、エース柿田の投球が冴え、2対0、3対1という僅差で守り勝った。

そして最大の難関と評された昨年夏の覇者長野日大高校との準々決勝。初回、力みの見えた柿田はいきなり4点を先制され、やっぱり日大には敵わないかと思われたが、2回以降完全に立ち直り追加点を許さない素晴らしい投球を見せた。そんなエースの粘りのピッチングに打線も応え、こつこつ得点を積み重ねた7回裏遂に同点に追いつくと、試合は4対4のまま松工にとって今大会2度目の延長戦に突入。そして一進一退で迎えた延長12回裏、日大内野陣の守備の乱れから松工に決勝点が転がり込んで、またもサヨナラ勝ち、8年ぶりの準決勝進出を手中にした。

厳しい試合を勝ち上がり、初優勝がグッと現実的なものとなった松工は、続く上田千曲高校との準決勝を5対2で勝利して、おそらく一番倒したかった相手、古豪松商学園との初の決勝戦に挑む。

この決勝戦が本当に長野県高校野球史に残るであろう圧巻の名勝負となった。
(野球にあまり興味のない方はちょっとご辛抱下さい)


試合が動いたのは2回の表 戦前の下馬評を覆し
松工が鮮やかな先制攻撃で2点を先行する

しかし夏に照準を合わせてチームを仕上げてきた
古豪松商はその裏すかさず1点を返し、続く3回にも
1点を追加してあっという間に2対2の同点に追いつく

春先の故障から復活した松商のエース平間は
ランナーを出しながらも要所を締め得点を許さない
そして破壊力のある松商打線は、6回に1点、さらに
7回にも2点を追加して、じりじりと松工を追い詰める

7回を終了して松商5対2松工、このまま勝利すれば
全国最多36回目の夏の甲子園出場を果たす松商

ところが、ここから松工が脅威の粘りを見せる

8回表松工は当たっている5番小池がヒットで出塁
送りバントで2塁に進み、ツーアウトとなったが
続くバッターの倉田が外角低めの難しい変化球を
右手一本で合わせ、フラフラッと上がった打球が
ショートのグラブをかすめながらレフト前に落ち
2塁ランナーが生還して2点差に追いすがる

その裏松商の攻撃 ここで前代未聞の光景が球場を包み込む

一球のストライク 一つのアウトを取るたびに、観客席から
湧き起こる「柿田」コール。明らかにいつもの県大会とは違う
異様な雰囲気が、松本市野球場を覆い尽くしていた

ここまで6試合全イニング800球近くを一人で投げ抜いてきた
松工のエース柿田。その姿は、あの北京五輪ソフトボール
681球の力投で日本を金メダルに導いた上野投手を彷彿とさせる

球場のほとんどを味方に付けた柿田は、その8回裏を三者凡退
に打ち取り、9回最後の味方の攻撃に望みを託す

そして5対3で迎えた9回表、松工の攻撃はすでにツーアウト
松商エース平間の表情に、この試合初めて笑みがこぼれる

バッターは、県No1投手の球を受け続けてきた2年生キャッチャー大熊
彼はワンツーからの4球目を詰まりながらも気持ちでセンター前に運ぶ
一塁ベース上、歯を食いしばりながらガッツポーズでベンチに応える
彼の目には、既に大粒の涙が溢れているようだった
先輩達との野球を終わらせたくないという本気がひしひしと伝わってくる

ここで球場を揺るがす柿田コールに迎えられ、4番柿田がバッターボックスへ
彼は2球目アウトコースの難しい球を上手く拾ってライト線への2塁打を放つ
塁上での表情はまったく変わらない、まさに野球三昧、無心の境地なのだろう

ツーアウト2・3塁 局面は一転 今度は「松工」コールが球場を包囲する

そして当たっている5番小池に打順が回る 巡り会わせとはこういうものか
その小池はあっぱれ初球を詰まりながらもセンター前に2点タイムリーヒット
松工はクリーンアップの3連打で9回ツーアウトから5対5の同点に追いつき
今大会自身3度目の延長戦に持ち込んだ

土壇場の奇跡的な同点劇の余韻冷めやらぬ延長10回表、松工はまたも
ツーアウトから俊足佐野がヒットで出塁、さらに意表を突く二盗を決めて
一打勝ち越しの場面を演出する

迎えるバッターは1番上原 彼はこの試合自らのエラーで
相手に得点を献上していた 雪辱を期して臨んだこの打席
意地の一振りでしぶとくライト前タイムリーヒットを放つ
6対5 延長戦には滅法強い松工が遂に勝ち越した

この試合最高のボルテージで連呼される柿田コールの中
10回裏松商の攻撃もすでにツーアウトランナーなし
しかしここで代打中西が執念のセンター前ヒットを放ち出塁
さすがに県下No1の伝統校、最後まで諦めずに全員で喰らいつく

ツーアウトランナー1塁 迎えるバッターは長打力のある1番岡村
その岡村は甘く入った4球目の変化球をフルスイング
打球はレフト後方への大飛球 ランナーは2塁を回って3塁へ
抜ければ同点という当たりに松工レフト倉田が必死の背走
そしてダイビングキャッチ 最後はフェンスにぶつかりながらも
ボールは放さない、そして高々とボールを掲げてゲームセット! 

長野県立松本工業高等学校 悲願の初優勝初出場の瞬間である


諸先輩OBのお歴々には、何と理不尽なとお叱りを受けるかもしれないが、松商OBである私が、母校が負けたにもかかわらず、何故松工を詳細な試合経過まで説明してここまで讃えるのか。息子の母校でもあり、多くの知り合いが卒業しているからという地元ならではの仲間意識も勿論あるが、私は他ならぬ今年の松工野球部ナインに本当に心を動かされたのである。

あれだけ好きだったプロ野球のナイター中継は最近まったく見なくなったが、高校野球は平日のテレビ放映を録画して観戦する相変わらずの野球ファンに変わりはない。

その録画で見た松工の試合で、エース柿田君が女房役の後輩キャッチャー大熊君を筆頭に、チームメイトがミスをすると必ずその選手の元に歩み寄り、笑顔で励まし鼓舞する姿を何度目の当たりにしたか分からない。更にその柿田君が得点を取られてベンチに戻るときは、背番号10を付けたキャプテン松下君がベンチを飛び出しエースに駆け寄って肩を抱き、大丈夫大丈夫と元気付けている。しかもこの光景はテレビカメラがたまたま捕らえた場面だけでのことである。

通常、超高校級のエースというのは、自己中心、我がまま、自分勝手が代名詞となるような性格を持ち合わせていなければ大成しないと言われている。

しかし、昨年の岩手県代表花巻東高校のエース菊池雄星もそうだったように、地元出身者の仲間で作り上げたそのチームで、少しでも長く一緒にプレーしたいという意思を強く持ち、それを無限定に実践する選手がこうやって続々台頭してくると、どんなに素晴らしい才能を持った選手でも、自分のためだけに一生懸命やるお山の大将より、チームのために本気で頑張れる選手こそ、その才能は際限なく発揮されるのではないかと思えてならない。

何故なら、他人のために無心で力を出し切れる人間の行動は、確実に周囲の心を動かし、そうやって同じ方向に動いたときの人間力は、不可能なことでも可能にしてしまうほどのパワーを持つ、まさしく奇跡を起こす裏付けがそこに生まれるからだ。

自分に対する何の努力も、他人に対する何の気遣いもできない人間に、奇跡なんて絶対に起こるはずはない、と私は思う。

地区予選6試合を、チームメイトを信じ、そして気遣いながら最後まで諦めることなく投げ抜いた柿田投手。その姿に触発され、このエースを助けようとどんな相手にも臆することなく一丸となって挑んでいったチームメイト。無限の伸びしろを持つ高校時代、エゴをかなぐり捨てた彼らは一戦ごとに本当に逞しくなっていた。

決勝戦で観客席から自然発生的に沸き起こった「柿田」コール、「松工」コールは、まさにそんな彼らの気持ちのこもったプレーに共感した人間力の表れであり、彼らはその人間力を自らのパワーに変えて、甲子園出場という裏付けのある奇跡を勝ち得たと言えるのではないだろうか。

勿論、松商の選手にだってその気持ちがなかった訳ではない。現在の監督は高校時代同期のよく知る友人であり、今年のキャプテンの母親はPTA役員として一緒に活動してきた間柄だ。それだけに母校の選手たちがどれだけこの夏に懸けてきたかは十分知っている。ただほんの少しだけ、相手の思いの方がより強いインパクトを発して、周囲の心を動かしたということなのだろう。

勝負ごとだから結果として勝者もいれば敗者もいる。勝者には「おめでとう!」、敗者には「よく頑張った!」と声をかけるしかないが、今回は両校に「素晴らしい試合をありがとう!」と一高校野球ファンとして素直に伝えたい。



『そっちに帰るの1ヶ月後だから 送ってもらえる?』

『それじゃDVDにダビングして送ったるわ』

『サンキュー! 楽しみに待っとるわ』

短いメールのやりとりながら、母校の優勝に歓喜する長男に
決勝戦のDVDと詳報を伝える新聞記事を宅急便で送ってやった

『今年の甲子園 全国放送で校歌が聞けたら最高だな』



2010年6月29日

四年に一度

キター!! ヨッシャー!! ホンダ!ホンダ!ホンダ!」

決勝トーナメント進出をかけた運命のデンマーク戦

前半17分、本田の無回転フリーキックが鮮やかに敵のサイドネットを揺らす

一瞬遅れて響いたカミさんの雄叫びもまた 真夜中の静寂な住宅街を揺らす


「キター!! ヨッシャー!! エンドゥ!エンドゥ!エンドゥ!」

先制点の興奮冷めやらぬ前半30分

今度は職人遠藤の狙い済ましたフリーキックが
芸術的な弧を描きながら相手ゴール右隅に突き刺さる

雄叫びと同時に鋭く突き出したカミさんの左手グーのガッツポーズも
五十路女とは思えない強い衝撃で私の右手上腕二頭筋に突き刺さる

我を忘れ完全に日本代表の一員と化したカミさんは
チームメイトに手荒い祝福を受ける遠藤の画にやおら駆け寄り
アクオス37型亀山モデルの薄型液晶画面に抱きついて祝福の接吻

四年に一度の世界の祭典を前にすると 相変わらず滅法危険な人種に豹変する…
(2008年8月「我が家のオリンピック」参照)


さてさて今回のワールドカップでの日本代表の予想外の躍進は、大会前の盛り上がりに欠ける沈滞ムードをブッ飛ばし、日本中がまったく予期せぬプレゼントを貰ったようなサプライズに包まれ、大きな感動と興奮の中、久しぶりに胸躍る熱き夏の夜の夢へと昇華した。


そのワールドカップと言えば、4年前のドイツ大会のときもこのコラムで少し触れた記憶があったので、何を書いたのかと当時の投稿(2006年7月「改革と改善Vol.1」)を斜め読みしていると、このコーナー自体がその2006年の3月からスタートしたことにハタと気がついてしまった。

もう4年も経ったのかぁ…と、暫し自己満足な感慨に浸っていたのだが、不思議なもので結構長く続けてきたなという思いと、振り返ってみれば4年なんてアッという間だなという思いが交錯する。


果たして真のアスリート達にとって、この4年という歳月は長いのか短いのか…

前回ワールドカップドイツ大会日本代表メンバーの主力は、あの中田英寿を中心に、小野、中村、高原、稲本らの黄金世代と呼ばれた選手達。
彼らは当時、年齢、経験ともに最高に油の乗った時期、おまけにその日本代表を率いる監督はブラジルの英雄ジーコ。
当然今回とは真逆なほど前評判が高く、誰もが史上最強のチームにそれこそ初のベスト8進出も夢ではないという期待を膨らませていた。

ところが予選リーグ初戦、オーストラリアに2対0からまさかの逆転負けを喫すると、その後も期待された実力を発揮することなく、1分2敗という戦績で悔しい予選リーグ敗退に終わってしまう。大会後、引退する者、海外に活躍の場を求める者、それぞれの道に歩を進めながら、また4年という歳月が流れる。

そして今大会、ベテランの域に差し掛かった黄金世代で代表メンバーに選出されたのは中村と稲本の二人だけ。しかも試合のほとんどを、二人はベンチから見守ることとなった。


スポーツ競技の世界では、年齢的なピークという避けられない壁があり、四年に一度の一発勝負に懸けるコンディションやモチベーションの維持調整が必須条件となる。
彼らにとって4年という歳月は、微妙且つ厳しい現実であることに間違いなさそうだ。


それにしても世界スポーツの祭典は何故四年に一度なのだろう?

オリンピックについては諸説あるようだが、紀元前古代オリンピックが開催されたギリシャで、当時使用されていた太陽暦の周期が8年だったことに由来しているという説が最も有力らしい。
当初8年周期で開催という意見もあったが、それではあまりに期間が空き過ぎるので2期に区切って4年周期で開催することに決定し、19世紀後半近代オリンピックの時代になってからも、これを踏襲して四年に一度の開催が定着したと伝えられている。


ワールドカップの四年に一度にはいささか曰くがあるようだ。

きっかけは、オリンピックのサッカー競技で「プロ選手の参加を認めて本当の世界一を決めよう」と訴えていた国際サッカー連盟(FIFA)の主張を、長くアマチュア主義を貫いてきた国際オリンピック委員会(IOC)が一向に受け入れなかったため、業を煮やしたFIFAが本物のサッカー世界一決定戦と位置付け、1930年南米ウルグアイで参加13ヶ国の世界大会をワールドカップと冠して独自に開催。
その後大会の威厳を保持するために、敢えてオリンピックと同じ四年に一度の開催に決定した。言ってみればオリンピックに対抗して誕生した大会なのである。


新しいところではワールドベースボールクラシック(WBC)がある。

忘れもしない昨年3月日本中が熱狂した第2回WBC日本VS韓国の決勝。
3対3の延長10回表、2アウトランナー2・3塁、バッターは我らが世界のイチロー。
カウント2-2から韓国の守護神イム・チャンヨンが投じた渾身のストレート。次の瞬間イチローのバットから放たれた糸を引くような打球はセンター前決勝2点タイムリー! 
おお~ 今思い出しても絶叫、鳥肌、さぶいぼのオンパレード。

このイチローの一振りで原ジャパンが見事大会2連覇を成し遂げたWBCも、次の2013年第3回大会からは四年に一度開催されるという。昨年の第2回大会は3年目に開催されたのだが、4年目にすると今年のワールドカップと重なってしまうという理由から1年前倒しで開催したと報道されている。
ただ、このWBCだけは、参加国が少ないこと、各国シーズンの日程調整等の関係で、いずれ消滅するのではないかという噂も囁かれているのが気にかかる…


とりあえず今のところはオリンピック・野球・サッカーと、それぞれ四年に一度順番に開催されるのだから、もう一つ、例えば賞金10億円を懸けたプロゴルフ国別対抗団体戦なんて世界大会が立ち上がれば、個人的には毎年楽しめるんだけどな~

寝ボケ眼をこすりながら、そんなつまらないことを結構本気で考えているここ最近の私なのです…。



ギャー!! ウソー!! コマノ~ォ~ ナンデ~」

決勝トーナメント1回戦 
日本代表はパラグアイとドロー
PK戦で1点足りず ベスト16で敗退

「PKなんてときの運 ジャンケンと同じだ いちいち騒ぐな!」

悔しさのあまり つい語気を荒げてしまった

「…ウッ…ウッ…」

日本代表の一員と化したカミさんは精も根も尽き果て
アクオス37型亀山モデルの薄型液晶画面を前にして
チームメイトを労いながら嗚咽を漏らして泣いている

「でも いい夢見させてもらったよな…」


喜びも悔しさも この底抜けの感動が四年に一度の醍醐味

サッカー日本代表のみなさん 本当にお疲れさま!!

2010年5月30日

魔のゴールデンウィーク

「ちょっと~ まだ飲んでるの~?」

カミさんが起きてきた・・・

「んっ?どうした? っていうか いま何時だ?」

確かついさっきまで3日の夜だったはず・・・

「どうしたじゃないわよ もう朝の6時だっての!ったく・・信じらんない」

どうも4日の朝になっているらしい・・・

「まあいいや お前も一緒に飲れ こいつらの話おもしれ~ぞ~」

私は二人の息子とすっかりいい気持ちになって盛り上がっていた・・・

「ちょ ちょっとまだ飲むの~? もう寝たら?」

小言をいうカミさんだが なぜか表情はまんざらでもなさそうだ・・・


「おはよ~ ありゃありゃ みんな相当酔ってるね~ ずっとやってたの?」

しばらくして寝ボケまなこの長女も起きてきた・・・

「おー 起きたかー よ~しお前もここに座れ~
 みんなで宴会だ~ お母さーん つまみつまみ~」


「・・・」


このゴールデンウィーク、東京で暮らす長男と長女が帰省して、我が家では久しぶりに全員が揃って(近所迷惑なほど)賑やかな休日を過ごしていました。

とは言え、彼らはまだまだ青春真っ盛りの若者。このチャンスを逃してなるものかと、毎日朝方まで旧友と遊び呆けているので、実際に親子が一緒に過ごす時間なんてほとんどないのが現実です。

今回も、全員が揃う初日の夕食時だけはどこへも行かずにジジババ孝行せぇ!と号令を発し、孫に会うことを楽しみにしていた互いの祖父母を連れ立って、なじみの中華料理屋さんに赴き、みんなで外食したくらいです。


そんな調子で故郷での僅かな休日を過ごし、明日は二人とも東京に戻る予定の5月3日の夕食後、たぶん初めからそのつもりで自宅で夕飯を取っていた長男が「俺も少し飲もうかな」と呟いて、テレビを見ながら晩酌をしていた私にグラスを差し出し、同じダイニングのテーブルに着きました。

心優しいウチの長男は、盆と正月、そして仕事が許せばこのゴールデンウィークと、年に2~3回の頻度で帰省するのですが、ここ何年か帰ると必ず一度は私と二人で飲む時間を作ろうとしてくれます。

私が、息子が幼い頃から一緒に酒を飲むことを楽しみにしていたということを、このコラム(2007/03『乾杯』)を見て知った長男が、最初のうちは私に気を使って自らそんな時間を持とうとしてくれたのだと思います。

オヤジとしてはそれだけでも嬉しい限りですが、最近はどうやらその長男の方が私と一杯飲ることを本当に楽しみにしているようです。

“一緒に飲む”と言っても、オヤジの私が一人でそう位置付けているだけで、さほど強くない長男にとっては酒は二の次で、どちらかと言えば自分の仕事や近況を思いつくままに話し、気にかかる悩みや疑問を私に投げかけ、それに対する親父としての考え方や、親父が若いときはどうだったのかを聞いたりしながら、現在の自身の仕事への向き合い方や生き方といったものがブレていないかを確認し、リセットする時間と位置付けているように感じます。

だから最近は私の方が息子の話を聴いている時間が多く、それだけに先に酔っ払って無責任なことをいうわけにもいかず、手前味噌ですが、これでも初めの1~2時間はなかなか中身の濃い時間を過ごしているのです。

今回そんな息子との至福のときが夜を徹してしまったのには当然わけがあります。

いつもの調子で二人で飲っていたところ、夜10時をちょっと回った頃だったでしょうか、おさんどんを終え、風呂から上がったカミさんも参加して、三人で改めて飲み直そうという状況になりました。

最初ハイテンションで久々の息子との会話をつまみに楽しそうに飲んでいたカミさんは、まあ彼女としてはよく頑張ったのですが、夜中の零時頃、人の話に相槌を打っているように思わせて実は爆睡しているという得意技を披露しつつも撃沈。寝ていることに気づいた息子に床に着くよう促されてあえなく撤収しました。

本格的に二人になった私と長男は、心地よい酒の力も手伝って、オヤジが禁煙したホントの理由(2009/12『今年の重大ニュース』)やら、息子の彼女の話やらでますます盛り上がっていました。

そして、そろそろお開きってもんかなと思った深夜2時、高校の同級会に行っていた次男坊が幸か不幸かちょうど帰ってきてしまったのです。

いつもなら「ただいま」だけ言って、風呂に入ってからそのまま自分の部屋へ直行する次男ですが、さすがにこの時ばかりは盛り上がっている我々二人を前にして

「まだ起きてんの?」 と口走ると、すかさず兄貴から

「この時間まで遊んでる奴が言うか!」 と返され、結局ここから男三人で飲み直すことになったのです。

しかし、その後の息子達との会話は、本当に時間も眠気も忘れるほど楽しく、そして私にとっては大きなサプライズで満載でした。

私は彼ら二人が中学生を過ぎた頃から、兄弟喧嘩をしているところを一度も見たことがなかったのですが、実はしょっちゅう取っ組み合いの大喧嘩をしていたというのです。
「母さんは知ってるよ」というので、なぜ親父の前では喧嘩しなかったのか聞いてみると、二人揃って「怖かったから」と一言。

私の前で取っ組み合いの喧嘩なんかしたら、逆に二人とも家から放り出されるんじゃないかと思っていたそうです。まったくこんな優しいオヤジをつかまえて何ともけしからん奴らです・・・と言うのは冗談ですが、確かに私は結構厳しい父親でした。

特にやることなすこと何でも初めてだった長男は、物心ついた頃から高校生辺りまで、それこそ何度私に引っ叩かれたり投げ飛ばされたりしたか分かりません。そんな長男を反面教師にした弟と妹は当然要領がよくなるので兄貴ほどではありませんが、それでもよその家庭のお子さんよりは厳しい環境で育ってきたのではないかと思います。

勿論、私は理由もなく感情だけで子供たちを叱ったことなど一度もありません。
私は彼らが幼い頃から次の三つのことを大事にするよう等しく話してきました。

「約束を守る」「嘘をつかない」「他人に迷惑をかけない」ということです。

だから、子どもたちがこれを守れなかったときには本気で叱りました・・・私がホンキだったから怖かったのは当然です。

しかし今、何より嬉しいのは大人になった彼らが今でもその大事な三つの生き方を覚えていて、私の父親としての思いをしっかり理解してくれていることです。勿論彼らは叱られたことを喜んでいるわけではありませんが、自分に非があったから叱られたということを今はきちんと認識しています。

こんなことも親子で時間を共有して、コミュニケーションしなければ分かり合えないことです。

夜を徹して飲むなんて端から見ればバカなことかもしれませんが、親子でこんなバカができるなんて、私は素敵な家族を持ったなあと本当に嬉しく思っています。

まんざらでもない表情だったカミさんも、そんなオヤジと息子の様子を見ながら『ずっとこんな時間が続けばいいな・・・』と思っていたそうです。



「・・・あれ? みんな無事帰った?」

夕方6時 昼と夜が完全に逆転してしまった

「ハイハイ お父さんにヨロシクと・・・身体大事にと承っております」

「いつ寝たか覚えてないんだけど 結局何時までやってたのかね?」

「楽しかったら何時でもいいんじゃない?
 それにしても魔のゴールデンウィークになっちゃったわね・・・」

「いやいや・・・俺はますますあいつらが好きになったよ」

「・・・きっと向こうもそう思ってんじゃない?」

「ああ いいゴールデンウィークだった」

2010年4月29日

気づきは才能?

「このまえはおハガキありがとう! でもどうして知ってたの?」

「去年奥さんの誕生日に二人でいらっしゃったじゃないですか~」

「え~そうだっけ? でもそれ覚えてたんだ・・・ スゴイねぇ~」

「いやいや ステキなご夫婦なんで いつもあこがれてるだけですよ~」

「上手いこと言って~ でもホンと アリガトね!」

「とんでもございません  本日もごゆっくりどうぞ~」

 

ご当地国宝松本城のたもとに、高校時代の友人が営む小さな居酒屋があります。

その友人であるマスターは、元々は寿司職人だったのですが、昨今の立ち寿司離れという時代の流れと、ひたすら握り続けた代償ともいうべき利き手の腱鞘炎も重なって、数年前に長年営んできた寿司屋に見切りをつけ、心機一転、現在はとっても気の効いた逸品と旨い酒を出す繁盛店を切り盛りしています。

マスターは学生時代、高校柔道界にその人有りと言われた強者で、小兵でありながらインターハイ、国体といった大舞台で、常に我が校の団体戦の大将を担う実力の持ち主だった男です。

従って、私らのようなホワイトカラーの青っちろいもやし男とは違い、俗に言う目から鼻にスッと抜けるタイプの、根性と気風が半端ない男くさい頑固者です・・・


ただ、今回の主役はそのマスターではなく、この店のホールでひときわ異彩を放ちながら働く一人の女性従業員なんです。

彼女は前の寿司屋さんのときからパートとして働いていたのですが、彼女の客に対する気づきと気遣い、そしてその対応がとにかく抜群で、私は彼女を初めて見たときからいたく感心して「いい人が来てくれて良かったね~」とマスターに何度となく言ってきたものです。

彼女のお店での立ち振る舞いは、どこぞのファーストフードチェーン店で「接客のノウハウを学んできました」なんていう、私が最も嫌いなマニュアル通りの客あしらいではなく、常にお客様目線で、そのお客様が今何を望んでいるのかを自分の感性で掴み、その要望を客に言われる前に叶えてしまうというレベルのサービスです。

この「客に要望を言われる前に叶える」というところが重要なポイントなんです。

例えば・・・

・子ども連れには最初から氷を入れたピッチャーでお冷を用意する
・お年寄りが一緒ならテーブル席に案内して取り分け用のお椀を置いておく
・「焼酎は何割りで?」って聞く前に、焼酎と一緒にまず水、お湯、氷をセットする
・「グラス(盃)はいくつ?」って聞く前に黙って人数分持ってくる

初めの二つなんかは何も言わずにさらっとやってくれたら嬉しいですが、こんなことにも気づかないお店が結構多いのが現状だと思いませんか?

私が経営者だったらこういう気遣いができるように口うるさく教育するのでしょうが、彼女はこの程度のことは誰に言われるのでもなく、自らの感性でそれこそ普通にやってしまいます。


なぜ彼女はこんな気の効いた対応ができるのか?
私は以前彼女とこんなやりとりをしたことがあります。

「どこかで本格的に接客を勉強したことがあるの?」
「いえいえまったく・・・」
「じゃ いつもどんなところに気をつけてるの?」
「・・・皆さんの表情です 楽しそうだなとかつまらなそうだなとか・・・」
「表情を見てるだけで その客が今何を考えてるか分かるんだ?」
「分かりはしません・・・ただそうじゃないかなって・・・私だったらそうだなって」
「それって客の立場でそこに居るってことだよね なかなかできないよ」

「何も特別なことをしてるとは思ってませんけど…お客様がここで楽しそうにしてる様子を見てると、私も自然と幸せな気持ちになるんです・・・失礼ですけど同じテーブルで一緒に一杯飲ってるって感じがして・・・だからここにいらしたときは皆さんが楽しい時間を過ごして欲しいんです! 私も楽しく居たいですから・・・」


数十年前、私がスナックのバーテンをやっていたとき、週2~3回のペースで来ていた一番の常連さんだったある男性から言われたことを思い出しました。

彼はいつも会社帰りに一人でやってきては、決まってカウンターの左から2番目の席に座り、キープしたバーボンをロックで飲んでいました。出身は九州で、たまに出る九州なまりが同郷の私には結構心地良かったことを覚えています。根はシャイな人ですが、ブルースが好きで、気分が良くなるとギターを手にしてオリジナルの『常念山』なんて誰も知らない曲をノリノリで歌っていました。

その彼が、ひとり静かに飲んでいた日がありました。人間ですから当然テンションの高いときもそうでないときもあります。

私もその日は彼とちょっと距離をとり、それでもそこに意識が行かないように、言われる前に氷を補充したり、灰皿を換えたりしながら必要十分な対応を心がけたうえで、敢えて何も話しかけずにいました。

そして閉店間際、彼が会計を済ませて帰ろうとしたとき、私に向かって言いました。

「・・・ホンに騒ぎたいときは一緒に騒いでくれるし、放っておいて欲しいときはちゃんと放っておいてくれよるし・・・ナシテそれが分かっとっとか~! なんてね・・・アリガト よっちゃん」 

当時の私は何も知らない若僧でしたが、彼に何かあったことくらいは一目で察しがつきました。あのとき、もし自分が彼の立場だったら、きっとそっとしといて欲しいだろうなと思ってそうしただけですが、彼の言葉に接客ってこれが本当に大事なんだと気づかされました。

ホンキでその人に成りきろうとすれば、才能とか経験がなくても、誰だって相手の立場になることはできると信じています。

当事務所が所属するTKCの理念である、故飯塚毅名誉会長が訴え続けた『自利利他』の精神は、自と他を区別しない、『他人(顧客)の幸せそのものが、自身の幸せである(と成る人たれ)』なのですが、この『自利利他』を、件の彼女のように無意識のうちに地で行ける人も世の中にはいるのです。

私たちは理念とか信条といった「あるべき論」を語り出すと、それがさも難しいという理屈や言い訳を並べ、結局実現できない理想のように位置付けてしまう傾向があります。自分にできるとかできないといった限定、これをやったら相手にどう思われるかという先読み、そういった無数の妄想に縛られながら暮らしているのが、悲しいかな我々の日常のような気がしてなりません。

彼女のように、無限定な『自利利他』の精神を持って生きている人を見ると、難しく考えないでもっと自由自在にさらっとやっていかなきゃなと教えられます。自分が自分がと我欲中心で動いてしまうさもしい生活から脱して、ちょっとだけ周りの人のためにという気持ちを優先させて行動できたら、見える世界が少し変わってくるのかもしれませんね。



彼女が今年カミさんの誕生日に贈ってくれた一通のハガキ
もちろん誰に言われたのでもない、気持ちの込もった
手書きのメッセージでした

“いつも後ろからお二人の笑顔をのぞき込んでいます

 今年も素敵な一年になりますように”


「誕生日なんか聞かれたことないのにねぇ」

「酔った勢いでそんな話したのかもな・・・」

「でも嬉しいよねぇ… 週末久しぶりに行かない?」

「・・・だね」

2010年3月30日

サプライズ

「会長! 娘さんは卒業後どうされるんでしたっけ?」

「ええっと… 専門学校に進みます… けど ここでそれ聞く?」


娘の高校の卒業祝賀会 300人近い列席者を前に
ステージの上で司会進行役のPTA副会長と
思い出話を語る即興コーナーでのこと


「明るくて元気のいいお嬢さんだって評判ですね!」

「そうですか? ありがとうございます…って
 だからここでそれ必要ないでしょ…」

途中から敵はやたらとプライベートな話題に突っ込んできた 

『?』

「実は今日 その可愛い娘さんから お父様へのお手紙を預って参りました!」

「なっ!!  えーっ!!  いやいやいや 嘘でしょ?」

このくだり 何かのテレビ番組で見たことあるぞー そうだドッキリだー

会場にいるカミさんに『知ってたの?』と目配せするが 首を大きく横に振る
あの鳩が豆鉄砲をくらったようなキョトン顔は どうやらグルではなさそうだ

『頼む やめてくれ~』

「ということで皆さん そのお手紙をこれからご披露させていただきます!」

会場からは万雷の拍手と冷やかしの歓声が飛ぶ

『ホ… ホンキなんだ…』



この3月で娘が高校を卒業しました。

私は今年度のPTA会長を仰せつかっている関係で、卒業式の来賓代表の祝辞に続き、式後に催された卒業祝賀会(昔の謝恩会です)では主催者側の実行委員長ということで、それなりに忙しくも充実した時間を過ごしていました。

その祝賀会の席上、私は役員の仲間たちからとんでもないサプライズを戴きました。


今年度、副会長という私の相方を務めてくれたK氏は、普段は旅行会社に勤務して添乗員などを本職としているサラリーマンなのですが、一方では司会業やラジオ番組のパーソナリティなどもこなすエンターテイナーで、この地方では知る人ぞ知る結構有名な男です。

そんなセミプロ芸人のような忙しい彼ですが、PTAの活動にも積極的に協力してくれて、常に私を立てながら、抜群の間合いで他の役員たちとの円滑なコミュニケーションを作り出す、パートナーとしては申し分のない有能な人物でした。

今回の祝賀会も、彼と二人で過去の実施要領などを参考に式次第を作り、事前準備から当日の仕切りまで、式のタイムテーブルとスケジュールを確認しながら企画運営してきました。


そして本番、彼は当然の如く司会進行を引き受け、その名調子で和やかに進められた祝宴が佳境にさしかかった頃、スッと私の席の傍らにやって来て、私の耳元で囁きました。

『ちょっと時間あるんで ステージに上がって二人で雑談でもしませんか?』

もちろん当初そんなコーナーはなかったのですが、それが悪魔の囁きだとは知る由もなく、ホロ酔い気分の私は、「いいよ いいよ」と二つ返事で軽くOKしました。

ステージに上がり、酒の勢いも手伝って、最初は彼との掛け合い漫才のような調子で会場を盛り上げていたのですが… 私は彼の仕込みに一瞬身体が固まってしまうほど、見事にはめられてしまったのです。

ところが・・・


K氏が代読してくれた娘の手紙にこんな一節がありました。

   “私学助成金の署名集めの時、お父さんは電話や手紙で
    大勢の知り合いに声をかけて一生懸命頼んでいましたね。
    そして一人で700人以上の署名を集めてそれを私が学校に
    届けたとき、署名の数を見た担任の先生から「オヤジさん
    は表彰もんだな!」と言われ、これってやっぱりすごいこと
    なんだと私もとても嬉しくなりました。そして、自分が引き
    受けたからにはどんなことでも手を抜かず、自分のやれる
    ことを精一杯やる、そんなお父さんの姿勢を私も見習って
    いこうと思いました・・・”

当時、私学助成金なんて言葉さえ口にしたこともなかったのですが、本当に子どもってのは私らの気付かないところで親をよく見ているものです。

その手紙の内容を聴きながら、娘のちょっと成長した一面も垣間見えてとても幸せな気持ちになっていた私は、これまでの娘との色々な出来事が自然と頭に浮かび、恥ずかしながら感極まって、込み上げるものを抑えることができなくなっていました。


K氏から手紙を受け取り、「家宝にします!」と一礼して、ハンカチで目頭を押さえながらステージを降りると、娘をよく知る先生方や部活仲間のお母さんたち、そして他の役員の仲間も次々と私の周りに集まってきて、「感激した」「会長最高ッス!」などと声をかけてくれ、肩を叩いて握手をしてくれました。

中にはこっちがびっくりするほど号泣しているお母さんや先生もいて、私だけでなく、みんなにとってもいい思い出になったのかなと、今はこのサプライズを演出してくれたK氏に感謝の気持ちで一杯です。

最初は勝手も分からず『気が重いなあ』と、内心PTA会長という役回りを憂いていましたが、K氏を始め多くの仲間たちのおかげで何とか1年務めさせてもらい、こうして最後にその素敵な仲間たちから大きなご褒美をいただいて…私は本当に幸せものです。

みんな ありがとう! 心から感謝してます!



「おまえ いつあんな手紙書いたんだよ!」

「え~ もしかして今日読まれたの?」

「知らなかったのか… でもよく黙ってたもんだな~」

「絶対親にバラすなって言われてたから…」


「そうか… しかし みんなすっごい感激してたぞ
 まあ お父さんが一番感激したけどな… ありがとよ」

「あんま泣かしちゃ可哀想だから あれでもちょっと遠慮したんだけどね~」

「・・・」


ドラマや映画を見ながらしょっちゅう泣いている私を
娘はやっぱりよく見ていたようだ…

でもホント  素晴らしい思い出をありがとう!



2010年2月27日

子ども政策

「ウチは何にもいいことないじゃん! 絶対不公平だよね~」

普段政治経済にはトンと興味を示さないカミさんが
珍しく新聞を読みながら愚痴った

「あ~『子ども手当』か・・・まあまあ とりあえずウチは影響ないけどね」

「エ~ だって中学生までの子がいれば月に26,000円もらえて 
高校はタダになるんでしょ? 10年前ならウチは78,000円も貰えたんだよ~
でも今は何も貰えないって 影響大ありでしょ~」

いくら興味がないとはいえ
安売りチラシとお金の問題には敏感だ

「まあまあ ただ貰える訳じゃなくて その分税金も上がったりするけどね・・・」

「あ~それでもあの頃に戻りたい・・・ついでにあんたの体型もあの頃に戻らない?」

って そっちかい!!


法案通り実施できるかどうかはフタを開けてみなければ分かりませんが、いずれにしても民主党マニフェストの目玉政策である「子ども手当」と「公立高校無償化」が、この4月から段階的に実施されることになりました。

この政策に追随する形で所得税に関する税制改正も国会を通過し、年頃のお子さんを持つご家庭のライフプランに確実に大きな変化をもたらしそうです。


ちょっと政策の内容を税制と対応させて整理してみましょう

『子ども手当』
中学校修了までの子ども一人につき月額26,000円(今年度は13,000円)を支給する。親の所得制限なし(現行の児童手当はこの制度に吸収される=実質廃止)
子ども手当に伴う税制改正は・・・
平成23年分からこの年代(満16歳未満)の一般扶養控除(所得税38万円、住民税33万円)を適用除外とする。

『公立高校無償化』
公立高校に通う子ども一人につき授業料助成として年額118,800円(全国平均授業料月額9,900円×12ヶ月 都道府県によって多少差異あり)を国が負担する。(施設利用費やクラブ活動費はこれまで通り本人負担)
高校無償化に伴う税制改正は・・・
平成23年分からこの年代(16歳以上19歳未満)の特定扶養控除加算(所得税25万円、住民税12万円)を廃止して通常の扶養控除(所得税38万円、住民税33万円)のみ適用する。

現行の特定扶養控除とは、16歳以上23歳未満(高校生~大学生)の扶養家族一人について、一般の扶養控除に上記金額を加算した額(所得税63万円、住民税45万円)を所得控除額とするものです。
今回の改正後は、19歳以上23歳未満(大学生年代)の扶養家族についてのみ特定扶養控除が適用されます。

やたら数字が並んでしまい 申しわけありません。

さて、この政策はいずれも国費、要するに税金が充てられるわけなので、財源を確保するためには必然的に税制も追っかけていかないと政府としては絵に描いた餅になってしまうわけですね。そしてお金の問題なので、当然にそれぞれの家庭環境によって損得勘定が働きます。

ご自身の家庭がどうか興味のある方は、それぞれシミュレーションしていただくとして、私が思うに、各政策がもたらす課題というか、考慮しなければならない問題があるのでちょっとこの場を借りて提起しておきます。

まず『子ども手当』に関しては、現行の児童手当と違って親の所得制限がないので、扶養控除がなくなる分の増税を差し引いても、ほとんどの家庭で手取りのお金は増えそうです。

但し、これはあくまで貰う税金と払う税金だけの話です。

例えばサラリーマンのお給料には「家族手当」若しくは「扶養手当」などが支給されているケースが少なくありません。その会社独自の手当はどうなるのか・・・もちろん各企業によって対応は様々だと思いますが、とにかく『子ども手当』の支給が、企業の給与体系に影響を及ぼす可能性はかなり高い確率であると思います。国から手当を貰ってるんだから、16歳未満の扶養家族への給料としての「家族手当」はカットするなんてことも現実的に十分起こり得ることです。


『公立高校無償化』については、やはり特定扶養加算がなくなることによる増税分よりも、助成金額のほうが多いので、子どもが高校に行くことによる実質負担額は削減されそうです。

しかし、この政策には私学助成との調整という大きな課題があります。実はこれ今年の私のもう一つの顔であるPTA会長という立場から、自治体に対する陳情活動など、私自身先頭に立って取り組んできた問題でもあります。

現在のところ国は私立高校の生徒に対しても、公立高校と同額の一人118,800円を基準として授業料助成を実施すると公表しています。更に、私学の授業料が高額であることを考慮して、年収250万円~350万円までの家庭にはその1.5倍、年収250万円未満の家庭にはその2倍の額を助成するとしています。

ただ、それでも埋まらない公私較差を緩和するため、自治体にその財源の確保を求めることを前提として、その助成額については各都道府県の裁量に委ねることとしました。その結果、大阪や京都など、一定の所得制限はあるものの、実質的に私学授業料も限りなく無償に近づけるような助成を表明している自治体もある一方で、国費で助成するのであればと私学助成予算を削減しようとするふざけた自治体まで出ている始末です。

公私の授業料較差は通常1:4と言われます。これが公私同額の助成であれば0:3になるわけで、基本的にはこれまでと較差自体は変わらないのですが、0というイメージが与える影響力の大きさ、また各自治体によって助成制度に対する姿勢に温度差があるという現実が、公立高校への生徒の集中化を招くと同時に、私立高校の存続自体を脅かす大きな問題に発展することが十分懸念されます。

とにかくいずれも単なる損得勘定の問題ではないということは確かです。

そもそも今回の民主党の子ども政策は、少子化対策というバックボーンに基づいて捻り出されたものです。安心して子どもを儲け育てることができる社会の実現を目指しての政策であることを忘れてはなりません。

とはいうものの、政策自体に多くの問題を内包しながら、子どもを育てなければならない我々大人の雇用情勢も一向に好転しない状況の中で、それでも政策は進められ実施されます。

せめて、『子ども手当』はその趣旨の通り子どもの養育のために充てられるように、そして『公立高校無償化』が、才能ある子どもたちの平準化、平均化の温床とならないように祈りたいと思います。



「ウチも税金高くなるんじゃないの?」

「だからウチは娘が今年19になるから今までと変わらないの・・・
あっ ただ配偶者控除も近々廃止するって言ってるから
もしそうなったらたぶん6~7万は税金増えるわな・・・」

やっぱり高くなるんじゃないー!!

これに答えてると話が長くなるので 今回はこの辺で・・・


2010年1月31日

五十にして・・・

「あ~ 私もいよいよ来月五十か~ なんだかな~」

2月早生まれのカミさんが感慨深げにボヤいた

「人間五十にして天命を知るっ…てか?」

「何それ?」

「論語だよ 聞いたことない?
人間五十にもなったら 自分の役割をわきまえろってことよ」

「役割ね~ テニスに…温泉に…まだなんか見つけろってこと?」

「き・・君は・・・」



『吾 十有五にして学を志し  三十にして立ち  四十にして惑わず
五十にして天の命ずるを知り  六十にして耳順(したが)う
七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず』

『論語』~為政篇~で孔子が自身の生涯を語ったとされる有名なことばです。

ここから、15歳を志学(しがく)/30歳を而立(じりつ)/40歳を不惑(ふわく)
50歳を知命(ちめい)/60歳を耳順(じじゅん)/70歳を従心(じゅうしん)と、
現代ではそれぞれの年齢や年代を現す言葉としても確立しています。


昨年4月、私は既に「知命」に突入していましたが、先日カミさんのボヤきを聞くまでは『天の命ずるを知る』ことをじっくり考えることもなく、2010年という新しい年を迎えておりました。

まごまごしているとあと数ヶ月でまた一つ無駄に歳を重ねてしまうので、この辺で一度しっかり抑えておきたいと思います。


論語の解説書などを当たると『天命を知る』とは「自分の人生における運命・使命が何なのかがわかる。つまりどんな天命をもってこの世に生を受けたのかを知ることである。」と書かれており、また「孔子は、政治家を目指して初期の頃一時的に諸侯に仕えたものの、その願いは叶わなかった。つまり孔子に政治家の天命はなかったのである。孔子は、50歳になって天命を知ったと一般的に解釈されているが、実際には、この自身の経験から人間にはどうすることもできない持って生まれた運命があることを「天命を知る」という言葉で著したのではないかと考えられる。そして孔子は『命を知らざれば以て君子為ること無きなり』と論語の最後で語っている。これは「人は天命を自覚して全霊で生きなければ、決して君子などにはなれない」ことを意味している。」と説かれています。

以下は私見です。

ここでの「君子」というのは、当時孔子自身が成ろうとした政治家を指した言葉のようですが、置き換えれば「自分のあるべき姿」であり、ここでいう政治家のような特定の職業や地位などとは捉えない方がよさそうです。

そして、先の解説からすれば、孔子は自分が目指していた君子になれなかったことで、誰にでも「天命」があることを悟り、人はその「天命」を自覚して精進しなければ、本来の自分のあるべき姿を見つけることはできないということを言いたかったのではないかと思われます。

これは一体どういうことなのでしょう?

私はこう考えます。

例えば「社長になりたい!」「社長になりたい!」といくら騒いでみても、その人に経営者として必要なリーダーシップやカリスマ性がなければ、仮に社長になったとしても、おそらくその会社はうまくいかないでしょう。しかし、もしその人に、物事をコツコツと確実に遂行する能力が誰よりもあったとしたら、ひょっとしたら経理部長とか秘書という立場で、なくてはならない社長の片腕になるかもしれません。

要するに「天命を知る」とは「己を知る」、換言すれば「自分らしさとは何かを自覚する」ことに他ならないのではないでしょうか。


若い頃の私は、いつか自分の店を持ちたいという夢を追い求めていました。そして、飲食店のカウンターに立って、客あしらいをすることが俺には一番向いている、俺が店をやれば絶対流行るなんてことまで本気で考えていました。

しかし、それから紆余曲折本当に色々ありましたが、結局は自分で店を経営することはできず、様々な縁を紡いで今はこの事務所でもう25年も仕事をさせてもらっています。

実は、ここまでお世話になるきっかけとなった強烈な縁が私にはありました。

もう10年近く前のことですが、TKC中央研修所顧問でありウチの事務所の顧問にもなっていただいている、千葉県の臨済宗妙心寺派妙性寺住職で我々職員が師と仰ぐ、高橋宗寛和尚(詳しくはhttp://www.tkcnf.or.jp/19ao/kaityou2012.html リンクしていないのでコピー&ペーストでご覧下さい)から頂戴した言葉です。

「世の中にはトップではなくて、補佐役とか黒子に徹した方がより力を発揮できる人がいる。君はそっちのタイプの人間じゃないかな… 歴史上最高の補佐役と言われた秀吉の弟、豊臣秀長の本を一度読んでみるといい。」

私はその日の仕事帰りに書店に立ち寄り、『豊臣秀長~ある補佐役の生涯~』という堺屋太一著の上下巻を手に入れて、夢中になって一晩で読み切りました。

読み終えたとき、秀長の魅力に引き込まれると同時に、それまで考えもしなかった『トップに立つことだけが人生じゃない』という人生観が私の心に強く残りました。

その感覚は、この業界はいつかは独立しなきゃいけないんだろうなぁ・・などと考えていた当時の私の先入観や葛藤をすっきり消し去ってくれたことを覚えています。


五十にして・・・できもしない口先だけの理想や蘊蓄だけを語ることはやめ、真の自分らしさとは何かを自覚したうえで、その「らしさ」を活かしきって生きる、これが「天命を知る」ことだと確信します。

ただ、言うは易し行うは難しです。なぜなら一つ間違えると自分らしく生きることは、自分の好きなように、自分の思うままに生きることと勘違いしてしまうことが往々にしてあるからです。 

これは十分に注意しなければいけません。周囲の人々とのコミュニケーションをしっかりとって、一人よがりにならないようにしていきたいものです。


因みにこのコラムも今回でちょうど50本目になりました。

ほんの僅かではありますが、お客様や友人などから「毎月楽しみにしてるよ」と仰っていただく声も聞けるようにもなりました。

そんな応援の声を支えにしながら、私の文章能力も追いつかない中、月一回の更新で一杯一杯続けておりますが、それでも節目の“50にして天命を知る”ということで、このコラムの役割もしっかり考えながら、これからも自分らしく続けて行きたいと思っています。

今後とも何卒ヨロシクお願いいたします!