2012年12月31日

今年の重大ニュース2012

「今年最後のコラム書かなきゃ…」

最近は国民的行事の紅白も知らない歌手が多くなり
残念ながら見る気も起こらないのでボクシングなど
眺めているところだが…

何だかんだ言いながら年末年始の酒量は一向に減ることはない

「今年はネタには困らないんじゃないの?」

確かにカミさんの言うとおり
我が家の2012年は「怒涛の一年」だった…




さてさて本年も恒例我が家の重大ニュースを書き綴る年末になりました。

今年はウチの家族にとって、人生の節目となるような大きな出来事が重なって、振り返ってみると本当に怒涛の一年と言える年だったと思います。
そんなニュースをかいつまんでご報告させていただきます。


【次男青天の霹靂 転職、入籍、そして第一子誕生!】

今年一番のビックニュースはやっぱりこれでしょうか。

22歳になるウチの次男坊は今年4月に4年間務めた会社を辞め、すぐさま懸命に就活していたそのとき、同棲していた婚約者との間に子どもができたと報告されました。

結婚を約束しているとはいえ、失職し、経済的にも自立する自信が持てない最中、彼女から妊娠したことを聞き、無理もありませんが正直青い顔をして目を泳がせていた息子を目の前にして、私は彼に向き合い親父になる覚悟をしっかり持つように諭し、一刻も早く先方の親御さんにその事実を報告して頭を下げて入籍を許してもらうよう嘆願してきなさいと話しました。

先方の父上も息子の誠意を快く受け止めて下さり、それなら早い方がいいと6月に結納を交わし入籍しました。時を同じくして運よく新しい仕事も決まり、息子は製薬会社の営業マンとして目の色を変えて働き出しました。

そしてこの11月20日に第一子となる女の子「陽菜」を無事出産。詳細は先月このコラムでもご披露させていただいたので割愛しますが、我が家には家族皆が自然と優しい笑顔になれる宝物ができたのです。それは同時に私ら夫婦にとって愛すべき初孫の誕生です。

次男夫婦はまだまだ若く社会的にも経済的にも一人前とは言い難い未熟者ですが、子どもを持ってからの息子の仕事や育児に対する一生懸命さを垣間見るにつけ、その親として、きっちり支援してあげようと思う次第なのであります。



【長女: 成人式そして就職】

専門学校を卒業した長女は今年成人式を迎え、就職も決まり、これでウチの三人の子どもは全員社会に出ることになりました。

娘は照明技術という芸能界の裏方のような仕事に就き、男同様の肉体労働を続けているようですが、オヤジとしては本人が好きで選択した職業なので、自分が納得するまでやってみなさいと話しています。


ただ、もしもこれ以上続けるのは無理という状況になったなら、いつでもウチに帰って来なさいとも伝えています。

親としては成人した子どもたちの人格を認め、普段は色々余計なことを言うつもりも干渉することもありませんが、子どもたちが困ったときには安心して帰れる空間を確保しておくことも私ら親の重要な責任なのかなと考えています。

今は娘も目の前の仕事を必死にこなしながら泣き言一つ言わず踏ん張って生活してますが、都会の波に揉まれながらも自分らしく生きて欲しいと思っています。



【長男: 結納 そして結婚へ 】

長男の伴侶は鹿児島の女性です。私が九州長崎の生まれなので、先方の独特のイントネーションものんびりとした雰囲気もまったく違和感などありませんが、よくこんな縁が結ばれたなと感心しています。

この11月、その長男の結納のために九州は鹿児島に赴きました。ちょうど市街地では小原祭りという名物の市民祭りが行われている最中、今年夏以来となる鹿児島のご両親とご家族に久方ぶりにお会いして、長男の婚約の儀を行いました。


その後、先方の案内で今なお噴煙を上げる桜島を見物し、その夜は霧島温泉に一泊。ご両親や彼女の弟さんらと旨い酒肴をごちそうになり、長男の結納と言いつつ私ら夫婦が久しぶりに二人で観光旅行に出かけたような状況を演出してもらい、とても中身の濃い時間を過ごさせていただきました。


これも我が子がもたらしてくれた素敵な縁と、桜島水系のまったりとした温泉につかりながら感謝しきりのひとときだったことが思い出されます。

彼らは来年6月に結婚披露宴を東京で行う予定です。相手を思いやる今の気持ちを忘れずに、しっかりとした家庭を築いて欲しいと思います。



皆が自己の節目となる一年を終え、更なる飛躍を目指して新しい年を迎えます。

私は子どもたちに何か特別なことを成し遂げてもらいたいとか、他人から称賛されるようなことをして欲しいなどとは考えていません。

ただ、愛すべき人、守るべき人を見定め、その人々を裏切ることなく堂々と生きて欲しいと思っています。そのために、私も自分の背中を自信を持って見せられる親でありたいと思います。


今年一年、お付き合いいただきありがとうございました。
来年も相変わらずよろしくお願いいたします。





2012年11月30日

ようこそ!

「うわ~~ちっさ~! ウチらの子とはえらい違いだね」

「ちょっと 可愛い~~!!」

新しい命が産声を上げた二日後 私らにとっては初孫との初対面である


「身体はきつくない? 大丈夫?」

若くして母親になった次男坊の嫁さんをカミさんが気遣う

「はい 大丈夫です!」

腰をさすりながら それでも いつもの笑顔で嫁さんが応える


「大変だったね ありがとう… ありがとう…」

元気な赤ちゃんを産んでくれた彼女に
新米爺さんは感謝の言葉しか出てこない

そして触れたら壊れそうな寝顔を覗き込みながら
心の中は安堵の気持ちで一杯になっていた

『母子ともに無事で 本当によかった!』



平成24年11月20日13時30分、次男坊夫婦に新しい家族、2,570gの女の子「陽菜(ひな)」が誕生しました。

産まれる前日の朝、眠い目をこすりながら起きてきた息子が、出産に備えて実家に戻っていた嫁さんがさっき入院したと呟きました。

もちろん出産の兆候があったから病院に入ったわけですが、予定日がまだ二週間も先だったので、私ら夫婦にも、正直期待よりも不安と緊張の方が強く走りました。

そしてその不安がやや現実的なものになったのは、その後微弱陣痛のような状態がずっと続いていて、嫁さんは結構辛そうだけど頑張ってる。でも、おそらく今日は産まれそうもないと息子から連絡が入ったときでした。

それを聞いたカミさんが、微弱陣痛は長く続くと母子の身体に負担がかかってよくないなんて言うもんだから、私は夜遅くまでネットで「微弱陣痛」って何だコノヤロー!と思いながら、検索しまくって調べていました。

しかし、結局その日は予想通り産まれなかったので、仕方なくそんな時だけの虫のいい神頼みをしながら床に就き、翌日も内心『大丈夫だろうか』と、そればかりを気にかけながら仕事をしていました。

それだけに息子から「無事産まれました」のメールを受け取ったときは、さすがに事務所のトイレに駆け込んで「ヨッシャー!」とガッツポーズを繰り返し、その後大便器に腰かけて赤ちゃんの写メを暫く見つめながら感慨に耽ったものでした。

さすがに職場だったのでこみ上げてくるものは何とか堪えましたが、あれが自宅で晩酌でもしている時だったら、大袈裟な話ではなく見事に号泣していたかもしれません。


巷では、孫は爺婆には責任がないから自分の子どもより可愛いんだよなんてよく言われますが、私は次男坊夫婦が慣れない様子で赤ちゃんを世話する姿を見て、まったく想定していなかった逆の感覚を抱きました。

『私の息子がこの赤ん坊の父親なんだな
この子はこれから私の息子を頼りに生きていくんだな』

そう思うと、私らがこの子の父となる息子を今までどう育ててきたのかが、そのままこの子の人生に反映するのではないかと、改めて自分の親としての責任を問われた気がしたのです。

だから決して私らに責任はないなどと言えません。大切な新しい命をしっかりと養い育む責任が自分の息子たちにあるのなら、私らが彼らの親である以上、彼らが魅力あるちゃんとした父と母に成長するためにサポートする責任があると思います。


そして想像もしなかったことがもう一つ

新しい命の誕生は我が家に素敵な贈り物をもたらしてくれました。

子どもたちが皆成人して我が家を離れてから私ら夫婦と年寄りだけの生活になり、それまで子どもたちを中心に家族みんなで楽しんできた季節折々のアニバーサリーは、当然のようにここ数年まったく無縁なものとなっていました。

ところが孫となる赤ん坊を目の当たりにしたカミさんは、自分の子どもたちが幼かった頃に具えていた母性が蘇ったかのように、今年のクリスマスの飾りつけを楽しそうに始めました。

ちょっと冷やかすと、毎年飾ってるよなんて言い返してきましたが、その楽しそうな様子は明らかに昨年までとは違います。

一緒に住んでいるわけでも、目の前に赤ん坊がいるわけでもないのですが、新しい命の誕生は、私たちに忘れかけていた我が子が幼かった頃のあの活き活きとした感覚を呼び起こしてくれたようです。

新米婆さんになったカミさんは、おそらく来年の雛祭りや誕生日も、若いママさんだった頃のように、楽しみながら家中を飾りつけたり、ケーキを焼いたりするのでしょう。


『子はかすがい』と言いますが、それは単に父親と母親の夫婦仲を取り持つという意味だけではなく、父母と祖父母、さらにはそれぞれの家庭の縁さえもより強く結びつけるという凄い力を持っていることを、私は初孫に教えてもらいました。


陽菜ちゃん

息子夫婦の元に産まれてくれてありがとう!

そして 我が家にようこそ!

2012年10月31日

師と仰ぐ人

「こないだはどうも~」

突然裏の勝手口からお義父さんの声がした

「あ~~ こんちは~ どうしたんですか?」

小走りで勝手口に向かうとお義父さんがドアから顔だけ覗かせながら

「こないだは夜中に悪かったね おかげで助かりました」

私はわざと少しだけ眉間にしわを寄せながら

「おじいちゃん もう何言ってるんすか~ 水くさい」

「いやいや ホント おかげ様でたいしたことなくて・・・ね」

「うんうん 女房から聞きました  
でも暫く入院みたいだから・・・また何でも言って下さいね」

「ありがと ありがと こっちは大丈夫だから じゃあね」



家内の両親の実家はウチのまん前に建っている。というより、私らが自宅を実家の敷地の一部に離れのように建てさせてもらっている。そして日中は家内が実家のおさんどんはもちろん、両親の身の回りの世話、要するに介護をかいがいしくしているという状況である。


先日夜更けに寝ていた家内が起き出してきて、「おばあちゃんが具合悪いみたい・・・今おじいちゃんから携帯に電話あった・・・」と言って眠い目をこすりながら実家に行こうとしたので、スポーツニュースを見ていた私も当然家内の後に続いて隣の実家に入って行った。

何しろ二人とももう八十を過ぎて要介護認定を受けるような老人なので、正直何時何が起こっても不思議ではない。

幸いその日はちょうど東京に住むカミさんの姉が里帰りして両親の世話をしてくれていたので、義父も取り乱すこともなく落ち着いていられたようだった。

家内の二歳上の義姉は東京で今も保育士をしているが、一月か二月に一度両親の介護のために数日間休みをとって里帰りしている。同居している私の母親を含め、毎日三人の年寄の面倒を見ているカミさん、即ち彼女にとっては妹の負担を少しでも軽くしてあげようと協力してくれているわけだ。

彼女たちは二人姉妹で実家には後継ぎがいないため、たまたま一家離散状態で根なし草だった私が、結婚後暫くしてカミさんの両親の面倒を見る覚悟を決めて20年ほど前から隣に住むようになったのである。


その日義母は熱を出し多少震えも来ていたので、近くにあるかかりつけの大学病院に私らが連れて行くことも考えたが、夜中でもあり、一般人が急に行っても病院の受入れ体制も十分ではないだろうということで大事をとって救急車を呼ぶことにした。

娘二人が母親の衣服を直したり、病院に行く支度やらしている間、男手の私は何をすればいいだろうと考え、とりあえず駐車場から玄関までのストレッチャーの通路を確保し、救急車を誘導するために表の道路に出て待つことにした。

ほどなくしてサイレンを鳴らしながら到着した救急車を駐車場まで導き、ストレッチャーを運ぶ隊員さんの前方に立って玄関まで誘導した。

3名の救急隊員が手際よく義母を救急車に運び入れ、かかりつけの大学病院に連絡をとってくれていた。義母はその段階でも目を開け意識もちゃんとしていたので、命に別状はないだろうと思ってはいたが、そこは何が起こるか分からない。

救急車には義姉が同乗し、カミさんが自分の車に荷物を積み込み後を追った。私は義父を休むように促してから自宅に戻り、カミさん達の帰りを待つことにした。


「暫く入院しなきゃいけないって…」

「そうか…」

夜中の1時半を回った頃、病院から戻ってきたカミさんがつぶやいた。
何かのウィルスが義母の内臓にいたずらして熱が収まらなくなっているらしく、1~2週間の入院が必要とのことだった。

ただ症状自体は重いものではなかったので、とりあえず一安心ということで遅い寝床に着いたのである。

(写真は入院病棟から見た景色)


義父はこのときのことを、休日で日中私が自宅にいる時を見計らって礼を言いに来たのだ。

私は日頃からこういう義父の思いやりや行動を本当に尊敬している。

今でこそ腰の曲がった優しいおじいちゃんになった義父であるが、私が家内と付き合い始めた30年以上前、ちょうど今の私と同じ五十代の頃は、それはそれは恐い昭和の頑固オヤジ…と、私の目には映っていた。

義父は社会に出て一人で魚の行商をやり始め、その後惣菜を作って売る商売を親友と二人で起こし、その店を一代でこの地域では知らない人がいない位の大きな食品製造会社にした豪傑である。

昔から自分がこうと思ったことはかなり強引にことを進めるワンマンな性格だが、義父が商売を立ち上げた戦後の高度成長期に向かう日本は、そんな周囲から揶揄されるくらいの「我」を備えていなければ、きっと成功できなかった時代だったのだと思う。


私が義父の足元にも及ばないと思うのがその勉強熱心なところである。

勉強という言葉が適当かどうかわからないが、とにかく知識や情報を得ることが大好きな人と表現した方がいいかもしれない。

何しろ八十半ばになった今でも、新聞は日経、読売、地元ローカル紙の3紙、週刊誌は新潮、文春、現代、ポスト、朝日の5誌、さらには中央公論まで読んでいる。

数年前までは株取引も頻繁に行っていたため会社四季報と、あちこちに始終出かけていたせいかJRの時刻表が必ずリビングのテーブルに置かれていた。

そして自分が大きくした会社は55歳であっさり勇退し、その後の10年間は細君や友達と旅行やゴルフを楽しんで悠悠自適に暮らしていた。

私がびっくりしたのは、ラスベガスや韓国の有名なホテルからカジノの世界大会などの招待状や案内状が自宅に送られていたことだった。


そんな豪傑で一見金持ちのセレブに思われる義父だが、私らが結婚するときは、私の家庭が父親の仕事の失敗がもとで、親戚や知り合いに顔を合せられないほど壊れていたことを察して、カミさんと二人だけでハワイに行って結婚式を挙げて来なさいと促してくれた。

名の知れた会社の社長だった人物の娘の結婚式なのに、そんな見栄や立場なんかをまったく気にしない人なのである。

そして、私が最も尊敬してやまないところが義父の細やかな気遣いだ。

これだけの人物が、私のようなどこの馬の骨かもわからないような男を受け入れてくれたことだけでも感謝以外の何ものでもないのだが、何でもないようなことでも決して偉ぶることもなく、私ら家族に対しても親しき仲にも礼儀ありを絶対に省略しない。
そこが本当に凄いところなのだ。

私は25年間親子をやらせて頂いているそんな義父を勝手に師と仰いでいる。



「久しぶりに子どもたち誘って廻る寿司でも食べに行くかね…」

「いいですね~  今日はウチが持ちますよ!」

「おお~それはそれは タダの寿司は二倍美味しいからね~(笑)」

「おっしゃる通り!(笑)」

こんな生活を少しでも長く楽しみたいものである



2012年9月30日

それって戦略?

「ねえねえ ちょっとこれ どう思う?」

カミさんが四分の一に折った朝刊を私の目前に差し出した

「『かけっこの1位 そこまでして』…これ読者投稿だね」

暫し記事に目を通していると…

「そのお父さんが褒めるってどうなの? 有りえなくない?」

カミさんが厳しめの口調で畳みかける

「ああ 褒めるのはいかがなもんかと思うが
高校や大学選ぶ状況って実際似たようなもんだからな」

「じゃぁ その子のやったことは正しいってこと?」

「いや正しい正しくないじゃなくて そういう考え方もあるってことだ」

「納得できないなぁ…」

「納得する必要はない…親子関係としてはまったくおかしいからな」



先日カミさんが持ってきたある新聞記事に目が留まりました。
記事というかよくある一般の方の投稿なんですが、ちょっと抜粋させていただきます。


孫の運動会に行った。連休で横浜から来ていた親戚の親子と一緒に観戦した。
一年生の孫のかけっこの番になった。孫は精いっぱい頑張り見事一着になった。
見ていた横浜の小学三年生の子が「あんなにむきになって走らなくても…」
と小声で漏らした。家に戻ってそれとなく親戚の親子に聞いてみた。

横浜の子の学校では、足の遅い子が極端な劣等意識を持たないようにと本番
前に全員のタイムを計り、同じ位のスピードの子ども同士で走らせるという。
そこでその子は考えた。『計測の時にわざと遅く走れば本番で遅い子と走れ 
るから楽に勝てる』と… 結果はぶっちぎりの一位だったそうである。

事情を知った父親は「それも戦略の一つ よくやった!」と褒めたという。

普通なら「ズルをしてはだめ 正々堂々と勝負しなさい」となりそうだが、
「今は競争社会 戦略なくしては生き残れない」というのだ。
しかし、いくらなんでも『正直者がバカをみる』を当然視する社会の中で育つ
子どもたちが、果たして幸せといえるだろうか…


さて、この記事を読んで皆さんはどう思われるでしょうか。
というよりどこに問題点を感じるでしょう。


極端な劣等感を持たせないためにと、初めから足が速い遅いで格差をつける学校?

自分にとって楽なレベルに身を置き、その中でトップになって満足している子ども?

周囲を欺く嘘や八百長さえも戦略と嘯き、それで本当に勝ったと思っている父親?


それぞれ本当にそれでいいんかいと言いたくなりますが、実は根っこの部分の大問題はすべてに共通しているような気がします。

それは自分さえ良ければいいという考えと、自分を守るためには何でもアリという行動をとってしまうということです。平たく言うと我儘とかエゴと言われるものですが、自分のエゴを基準にすべてのことを処理しようとするから信じられないことが平気で起こるのだと思います。


学校は、表向き生徒が劣等感を持たないようになんて言ってますが、実際のところ足が遅いことで落ち込む子どもが出ようものなら俗にいうモンスターペアレントとやらに苦言を呈され、面倒なトラブルになることを畏れているだけのように受け取れます。

そもそも人と競い合って負けることも、自分の思うようにいかない辛さを知ることも、ある意味それを訓練のように経験できるのが学校であり、そこからどうやって立ち直るかを指導、教育するのが先生と言われる人達の本来の存在価値なのだと思います。しかし、今の教育現場は子どもたちにその経験すらさせないというカリキュラムで成り立っています。そのあからさまな事なかれ主義は、教育現場の保身としか言いようがありません。


自分が楽な方へ楽な方へ行こうとする人は、そうしていることを自分自身が一番よく分かっていると思います。それなりに年齢を重ねた良識ある大人であれば、仮に暫くはその状況に甘えていたとしても、どこかでこのままではいかんと気が付くはずですが、小学生の子どもにそれを求めるのは当然無理があります。しかし、楽な世界に身を置いて、そこで楽に生きることを親が良しとするならば、子ども自身になんらの成長も進歩もないのは明らかで、ただただ親子そろって低次元な自己満足の世界に留まってしまうだけなのではないでしょうか。


そして大問題の元凶である「親」

親は自分の子どもに世の中の常識やマナー、そして人としていかに生きるべきかを身をもって示すことが重大な責務でありますが、その親が明らかな嘘を戦略と言ってしまってはアウトです。嘘はどこまで行っても嘘だからです。

しかし、子どものためだったらルールも常識もおかまいなしといった親が多いのも悲しいかな事実です。世のお父さんたちが運動会で自分の子どもだけを一生懸命ビデオに収めようとするルール無用の姿に象徴されますが、そんなの当り前でしょと公言する親さえいて…まさしくエゴの塊だなと恐くなります。

今さら言うまでもなく、いじめやニートや引きこもりといった問題の原因は、学校でも教育委員会でもなく、すべては家庭の親子関係にあると私は思ってます。

たとえばこの投稿の父親のように、わざと遅く走って一等賞になった我が子をよくやったなんて評価していると、この子には我慢とか辛抱という気持ちが育まれることはなく、今後ちょっとしたことですぐに挫折したり諦めたりして、社会に順応できなくなってしまう可能性が大いにあります。

さらにこんな年頃で一等賞になるために人をバカにしたようなことをすることで、皆に無視されたりいじめに遭うことだって十分考えられます。それもこれも実は大事なときの父親の対応一つです。


基本子どもには何の罪もありません。子どもは親を見て成長しているからです。すべては親のひとりよがりの意識がどのくらい強いかが、自分の子どもに表れると見るべきです。それだけ親の生き方や言動に責任があることを私たちは親として識るべきではないでしょうか。

一稿の記事で、親としてのスタンスを改めて考えさせていただきました。



「ウチの子たちはこんなことなかったよねェ?」

「(笑)そこまで頭が回るやついないでしょ…」

「そうだよね 三人ともいつも一生懸命だったよね」

「俺達がそういう生き方しかできなかったでしょ?」

2012年8月31日

兄弟の絆

「オオ~ 伊調ホントに3連覇やっちゃったね~」( ̄▽ ̄;)

ロンドン五輪レスリング女子63キロ級で伊調馨が見事五輪3連覇を達成

「見たかコラァ!! これが日本の女子力だぜぇー!!」○=(`◇´*)○コノヤロー

4年に一度のスポーツの祭典に人一倍燃え上がるウチのカミさんが吠えた
この人の常人離れしたテンションを詳しく知りたい方は4年前のこちらをどうぞ
(「我が家のオリンピック」http://dairicolum.blogspot.jp/2008/08/blog-post.html)



この夏17日間に亘り日本中を寝不足にしたロンドンオリンピックが去る8月13日幕を閉じ、ご存知の通り日本は五輪史上最多38個のメダル獲得という輝かしい成績を収めた。

そして今大会は、大和撫子と呼ばれる女性アスリート達の活躍が目覚ましく、五輪大会史上初と叫ばれる嬉しいニュースを連日我々に届けてくれた。

特に女子レスリング吉田沙保里と伊調馨の五輪3連覇は特筆すべき快挙だろう。

五輪3連覇などという途方もないことをやってのけた日本人は、後にも先にも男子柔道60キロ級の野村忠宏ただ一人だったが、この大会で一気に二人の女性アスリートが肩を並べたわけである。

中でも伊調馨が3連覇を勝ち取った後のインタビューで、スタンドから応援し続けていた姉、五輪二大会連続銀メダリストの伊調千春を「千春の声は天の声」と讃えたエピソードは印象深く残っているが、のみならずレスリングを通しての伊調姉妹の強い絆は以前からあらゆるところで語り継がれている。


「入籍したこと誰も俺に報告しないって! ありえないっしょ!」

先週遅い夏休みをとって弟夫婦の入籍をお祝いしたいと彼女を連れ立って帰郷した長男が、その宴席の冒頭、自分が弟たちの入籍を知ったのが先月のこのコラムだったとあきれて皆に言い放った。

「あれ? 言わなかったっけ? はっはっはっ ごめんごめん」

弟を初め我々の反応が極めて冷静なものだったので、兄貴もやや拍子抜けしたようだったが、入籍を人生の一大事と捉えていた長男と、入籍そのものはそう大きな問題ではないと捉えていた次男との間に少し温度差があったようである。

二人ともちょうど同時期に自身の結婚という節目を目前にしているが、二人の考えが違うようにその伴侶やご家族の結婚に対する考え方もそれぞれの家庭環境ももちろん違うわけで、私としてはそういったことも含めて大きな人生勉強をしているなと見守っているところである。


彼らは四つ違いの兄弟だが、私が知る限り二人がよく話をするようになったのは極々最近のことである。

中学生くらいから成人するまで、いわゆる思春期と言われる頃は、私の前ではほとんど会話をすることもなかったので、互いに我関せずという距離感を持っているのかなと思っていたが、後々カミさんから聞いた話では、私の居ないところではしょっちゅう取っ組み合いの大喧嘩をしていたのだそうだ。

私には男兄弟がいないので彼らの真意は計り知れない部分もあるが、幼いころの記憶をたどれば、弟は常に兄貴の背中を追っかけていたように思う。

兄貴が小3のとき地域のスポーツ少年団に入ってサッカーを始めると、その翌年、弟は小学校に上がると同時に兄貴のいるチームに入団した。

おそらく弟は気付いていないと思うが、当時兄貴を目標にして、兄貴に早く追い付きたくて毎日ボールを必死に追いかけまわしていたおかげで、周囲の仲間達よりちょっと早く上達し、チームメイトの親御さんからもお宅の子はサッカーが上手いと言われるようになっていた。

そして兄貴も自分が小学校を卒業する頃には、口には出さなかったがそんな弟の力を十分認めていたように思う。

最も印象的だったのは、小学校育成会のスポーツ大会で、6年生だった長男がウチの地域のサッカーチームのキャプテンをやったときのことである。

この試合は前半4年生以下の子だけでゲームを行い、後半から5・6年生が出場できるというルールで、その出場選手を決めるのがキャプテンの役割だった。

前半は当時3年生だった弟が一人で相手を抜きまくって2~3点入れたところで終了。後半は兄貴を中心に高学年だけのチームで試合に入ったが、相手チームにスポ小の6年生が何人かいて次々とゴールを決められ追いつかれてしまった。

そのとき、交代して退いていた弟がライン沿いまで走って行って、試合中の兄貴に向かって大声で必死に何かを叫んでいた。彼は、泣きながら自分を出してくれと兄貴に嘆願していたのだ。

兄貴は5・6年生だけのチームに3年生の弟を入れていいものか暫し悩んだようだったが、ボールがタッチを割ったところで審判に交代を告げ、弟を再びピッチに呼び入れたのだった。兄貴は、サッカー経験のあまりない他の上級生より弟の方が明らかに戦力になると分かっていたからである。

その試合は結局負けてしまったのだが、その一連の光景は微笑ましい記憶として私の脳裏にはっきり焼き付いている。


その後、二人はクラブチームや学校の部活でそれぞれサッカーを続けていたのだが、兄貴が高校2年のとき、サッカー部の顧問と部員の間でトラブルが生じ、結局折り合いがつかずに兄貴を初めほとんどの部員がサッカー部を辞めるという事態にまで発展してしまった。

このときは私も他の親御さんたちと一緒に学校に何度も足を運び、何とか息子たちが普通にサッカーができる環境に改善して欲しいと学校側に直談判したのだが、結局学校側の対応も事態も何ら変わらず、意に反する形で長男はサッカーシューズを脱ぐことになった。

実はこのとき、この事態を一番悲しんでいたのは他ならぬ当時中学2年の弟だった。

お互い口には出さないまでも、当然に兄弟の存在が自身のサッカーに対するモチベーションの刺激にも支えにもなっていたのは言うまでもない。

特に弟にしてみれば、常に目標にしていた兄貴の背中が見えなくなってしまったわけだから相応のショックを受けたのは火を見るより明らかだった。レスリングの伊調姉妹とは大きくレベルの違う話だが、弟は人が羨むような戦績も、名前が知れるような活躍も、そんなことを兄貴に求めていたわけではない。ただ、サッカーを続けていて欲しかっただけのことである。

もちろん今は、弟もその時の兄貴の忸怩たる思いを理解できる大人になり、事情を察して何のわだかまりも不信感も持つことはない。

彼らはプロのなったわけでも何でもないが、子どもの頃から打ち込んできたサッカーを通して、私らも入り込めない二人だけが分かる感覚を持っているような気がする。


兄弟として色んな経験を経て、今はそれぞれに家庭を持つことになり、自分よりも大切にする人の存在を知ることになったせいか、最近は末娘も含めて三人ともお互いを思いやる気持ちがグッと強くなったように感じる。入籍を知らせてくれなかったと怒った兄貴も、弟の幸せを一番に願っているからこその気持ちの表れなのだろう。

オヤジとしては、兄妹なんだから歯の浮くような言葉をかけあう必要はないが、いざというときは真っ先に寄って支える関係でいて欲しいと願っている。



(以下 2012年8月9日 読売新聞より抜粋)
2連覇を達成した北京五輪。記者会見で2大会連続の銀メダルに終わった
姉千春が現役引退を表明すると、妹馨も「自分一人だと目標がない、この
五輪を最後にする」と引退の意向を口にした。「姉妹で金メダル」を目指
してきた妹にとって、姉のいない五輪ロードなど無意味に思えた。

「馨、一緒にカナダに行こうか」姉千春の提案で二人は2009年4月
レスリング漬けの日常を離れてカナダに一時留学した。

異国で初めて経験する二人暮らし。カルガリー大で英語を学び、世話好きな
姉千春が作る野菜のたくさん入ったポトフを毎日のように食べた。
競技の話はほとんどしない。懸命に英語を覚える自分が新鮮だった。

週2日程度軽く練習した大学では学生が気軽にレスリングを楽しんでいた。
馨は「こんな世界もあるんだ」と視野が広がり、重圧に疲れた心が徐々に
癒やされていった。

約8か月後に帰国した2人はそれぞれの道を歩き始めた。
妹馨は拠点だった母校の中京女子大を離れ、東京で一人暮らしをしながら
競技を続けることにした。姉千春は青森県八戸市に戻り夢だった高校教諭に。
しかし、競技との両立が難しくなり半年後には一線から退いた。

「一人で心細くなった」最初はそう漏らしていた妹馨は、毎日電話やメールで
悩み事などを姉千春とやりとりをするうちに物理的な距離を感じなくなった。
姉は今年に入ると月1回のペースで上京し、妹の身の回りの世話も始めた。

観客席の姉千春は、妹馨の準決勝直前、深呼吸をしたり首を回したりして、
自分が試合に臨むような姿だった。「一緒に戦っているつもりなので自然と
動きが出ました。あと一つ気を抜かずに…最後まで一緒に戦います!」



2012年7月31日

感謝感激 アメ アラレ

「お二人のようなご両親の元へなら 安心して娘を嫁に出せます」

「そんな立派な者ではありませんが そう思っていただければ光栄です」

「わがままな娘ですが 今後とも宜しくお願いします!」

「こちらこそです! 今日はありがとうございました 本当に楽しかった
彼らのためにも私達親がいい関係を作っていきましょう! 」

別れ際、品川駅の構内で私は鹿児島の父上とガッチリ握手を交わしていた



今月は私ら夫婦にとって、何と表現していいか分からないがとにかく怒涛のような一ヶ月だった。

おそらく親という立場になって、初めて子どもたちのために親らしいことをする、言ってみればそんな節目のイベントが、図ったわけではないのだが立て続けに執り行われたのである。


先ず最初は 7月7日(土) 巷は年に一度の七夕の夜 

この日、私ら夫婦は次男の結婚顔合わせの席に赴くため市内の料亭に向かった。

次男は先月このコラムでもご報告申し上げたように、結婚を約束した彼女と一年前から同棲していたのだが、4月の終わりに子どもができたことが分かり、急ぎ先方のご実家に伺ってご両親に報告、相談のうえ先月の18日に入籍を済ませていた。

しかし、まだ両家の親同士は一度も面識がなかったので、できるだけ早く顔合わせの席を設けましょうという話になり、そういうことならと私の方で手配させてもらいこの日にお会いすることになったのである。

実は次男は兄貴である長男が、やはり長くお付き合いしている彼女と来年結婚する予定であることを当然に知っていたので、当初兄貴の顔を立てて、自分たちは兄貴たちの結婚式が終わって暫くしてから具体的な話を進めるつもりでいたようだ。しかし図らずも件の状況となり、そんなことは言ってられないと我々親もバックアップしながら話をとんとん拍子に進めたという訳である。

先方のご両親は、諏訪湖の花火で有名な諏訪市在住の方で、私らとは一つ違いの同世代のご夫婦だ。お子さんはウチと同じ三人だが三人とも娘さんとのことで次男の伴侶はそのご長女に当たる。

父上は酒が好きで相当強いと以前息子から聞いていたので楽しみにしていたのだが、口開けのビールが終わりかけた頃、私がドリンクメニューを差し出しながら…

「お父さん何にしましょうか? お任せしますよ」 と笑顔で振ると

「いいんですか?じゃ大雪渓を…ぬる燗で!」 と父上が眼光鋭く注文した瞬間

『ひえ~こりゃ本物だ~』 と心の奥で笑顔を強張らせたものである。


しかし、それからの宴はそれはそれは心地よく楽しいものだった。

父上とそれぞれの家族の色々なエピソードを肴に指しつ指されつ語り合い、その話に乗って母親同士もすっかり昔からの友達のように、ときに身体を叩きあいながら爆笑するわ、ときにしんみり二人で涙ぐんだりするわで、本当に今日初めてお会いした方々なんだろうかと不思議なくらいに温かい気持ちになっていた。

いつしか息子は仲居さんのようにオヤジたちの酒の注文を取り次ぎ、上座中央に座した身重の嫁さんは、つわりも忘れて顔を左右に振りながら、ただただ我々に笑顔を振りまくだけになっていた。

気がつけば、大雪渓ぬる燗一合徳利15本を父上と二人で呑み倒し、店を出てご両親に向かって頭を下げた後の記憶は見事に飛んでいたのであった。



そして翌 7月14日(土) 巷は3連休の初日

この日、私ら夫婦は長男の婚約顔合わせの席に着くため東京は品川に赴いた。

長男は八王子の専門学校を出てからそのまま東京で就職し、現在商業デザイン関係の会社にデザイナーとして勤務しているが、5年ほど前からお付き合いしている鹿児島出身の彼女と来年結婚する意志を固めたというので、こちらもまだ面識のない両親同士の顔合わせをしようと息子たちを挟んで結構前から画策していたのである。

そして、此度彼女のご両親が連休を使って鹿児島から上京することになったので、こっちで一席設けたいが我々も上京できるかと長男から連絡が入り、私らとしては何があっても飛んでゆかねばなるまいと勇んで向かったという訳である。

鹿児島のご両親も私らと一つ違いの同世代ご夫婦で、父上は割腹が良く見た目は強面だがとても優しく洒落の分かる愉快な薩摩隼人である。そして娘さんそっくりの母上は容姿端麗で可愛いらしく、お世辞抜きで私らより十は若く見えそうなとても明るい薩摩おごじょである。お子さんは二人で彼女が長女、ご実家にお姉さんととても仲の良い弟さんがいらっしゃるという。

彼女の人となりやご実家のお話は、一昨年8月のコラムで紹介しているのでこちらをご覧いただきたい。(2010年8月「反面教師」http://dairicolum.blogspot.jp/2010/08/blog-post.html)


さて、先方の父上もご実家に湧き出す温泉水を利用して「美宝泉」というオリジナル焼酎を作っているとあってかなりの酒豪だと長男から聞いていたので、私は先週の轍を踏まないようにとやや抑え気味の心境で、品川駅前に息子たちが手配した割烹居酒屋の部屋に入りご両親と対面した。

互いにちょっと緊張した面持ちで挨拶を交わし、息子たちによる家族紹介が終わったところで乾杯へと移った。この日東京はかなりの猛暑で皆一様に生ビールが進み、歓談しながらあちこちで二杯三杯とジョッキを空けていたが、一息ついたところを見計らって私がドリンクメニューを広げながら…

「お父さん何にしましょうか? お任せしますよ」と笑顔で振ると

「よかですか? じゃ…黒伊佐で…うん? おおぅ一本もらえばよかたい!」

父上は娘さんと相談して本場薩摩の芋焼酎黒伊佐錦をボトルで所望された。

『こりゃやっぱり今日も気合い入れなきゃいかんな』

因みに前々から紹介しているが、この薩摩隼人の血を引く長男の彼女もはんぱなく酒が強い。今日はそんな薩摩おごじょもいるので、私もとことん付き合う覚悟を決めたのである。

そして父上と差し向かいで黒伊佐錦のロックを何杯か飲み干した頃、「こんばんわー」と仕事帰りのウチの娘が顔を出した。実は長男の彼女が誘ってくれて、先方のご両親も快諾していただき、場違いではあるが妹としてご挨拶に赴いたという訳だ。

長男の彼女は、今年4月に就職して神奈川で一人暮らしを始めたウチの娘を日頃からとても気にかけてくれていて、実の妹のように可愛がってくれている。娘もそんな彼女を慕っているが、お互い酒が強くて好きなところが二人の仲を取り持つポイントとなっていることは誰もが認める事実である。


それでも昨年二十歳になった娘は、私もびっくりしたのだが、彼女と彼女のご両親にちゃんと手土産を用意して来たので、普段そんなことができない子だと知っている彼女がとても感激したようで、娘も加わった後は一気にテンションが上がり、焼酎がまったく飲めないという母上の「オッケ~!」「オッケ~!」というローラのものまねが部屋中に伝染するなど、笑いの絶えないとても賑やかで楽しい宴となったのである。

気がつけば、黒伊佐錦ボトル2本を空にして、皆で品川駅に向かってふらふら歩きながら、写真を撮ったり何度も握手をしたりして、別れを惜しみながらそれぞれの宿に帰って行ったのである。



息子の結婚相手のご両親と共有した時間は、私にとっては想像以上に楽しく気持ちが温かくなるひと時だった。

男親と女親の違いは当然あると思うが、まずは子どもたちが愛し合っているという事実がベースにあり、互いにその伴侶となる人間を育てた親同士が分かり合おうと好意的に本音で語り合うのだから、一般的な初めましての会合とは全然違い、相手を理解し受け入れるのにそんなに時間はかからないということなのだろう。

いずれにしても、そんな子どもたちの出逢いをきっかけに、私ら親もまた新しい出逢いの縁を持たせてもらっている。これから先も娘の結婚や息子夫婦の子どもの誕生など、その輪がどんどん広がって行くことを思うと、こんな大きな幸せを与えてくれる子どもたちに感謝せずにはいられない。

今回は、そんな至福のときを立て続けに見舞ってくれた二人の息子に
「感謝感激アメアラレ」である。 ホントにありがとう!




「ああ いいじゃ~ん! よかった ピッタリピッタリ」

長男の彼女が左手薬指にはめた婚約指輪を見ながらカミさんが喜んだ
数ヶ月前、お祝いにとカミさんが彼女にプレゼントした指輪なのだが
これは私が結婚するときにカミさんに贈った婚約指輪である


「ああ いいじゃ~ん! 洒落たデザインだね 似合う似合う」

東京から戻った翌週 次男から電話があり私らに会いたいというので
近くのイタリアンで一緒に食事をすることにした
その席で彼女が左手薬指から抜いた指輪をカミさんの手の平に乗せた

これも結婚が決まってすぐにカミさんがプレゼントした婚約指輪である
サイズ直しと多少のデザイン加工を頼んでいたものが出来上がったので
一番にお母さんに見せたかったのだという
この指輪もカミさんが結婚するときに実の母親から貰った素敵な指輪である


もうすぐ娘になる二人が本当に嬉しそうに自分の指輪を貰ってくれたのを
殊更喜んでいたカミさんだが、私はこんな素敵なことをサラッとするこの人に
実はまた惚れ直しているところである

2012年6月30日

運命の出逢い


「父の日 おめでとう!」(一o一)/

久しぶりに実家に来た次男坊が『ワンピース』六十六巻を私に差し出した

「普通 “おめでとう” じゃなくて “ありがとう” だ」 "d(-。-;) 

「そうなの~ じゃ“ありがとう” ってことで 」( ̄0 ̄)/

「てことでって… で? これがその贈り物ってことね」(・_・)?

「うん… あれ? ひょっとしてもう買っちゃった?」w(゚皿゚;)w

「いや買ってない買ってない なかなか粋なプレゼントだな…」(^-^;)


先月寂しげに触れた今年の「父の日」は 長男からの感謝メールと
次男からの大人気アニメ最新巻一冊を貰って静かに幕を閉じた

何の音沙汰もなかった娘は…仕事が忙しいということにしておこう・・・(T_T|||)



さて、そんな風前の灯のような父の日のことはどうでもいいのだが、実はここ2~3ヶ月、粋なプレゼントをくれた次男坊が、彼にとっては晴天の霹靂のような事件に次々出くわしながら懸命に生きていた。


そのしょっぱなは4月の初旬、私に話があると実家にやって来た息子が神妙な顔つきでこう切り出した

「お父さん 俺 会社辞めた…」

小さな頃からウチの子どもたちがこういう雰囲気のときは、私ら親にとって大体悩ましい話だということは流石に見当はついていたが・・・

次男は高校を卒業してすぐに石川県に本社がある企業に就職し、その支店となる県内の工場で自販機の修理や保守、設置などの業務に従事していた。

彼はその会社で4年間、私の知る限り仕事自体は真面目に頑張っていたはずで、昨年は同工場で唯一優秀技能社員とやらに選ばれ、本社から召集を受けて表彰され、慣れないスーツ姿で社内報に載ったり、今年の3月には業界では難関だという「自動販売機調整技能士」という国家試験にも受かったばかりだった。

その状況で彼が何故辞めなければならなかったのかは相手もあることなのでここでは割愛するが、彼の心情を察して余りある事情があったことは息子の名誉のために付言しておきたい。

ただ、理由はともかく私はこの件で一つだけ息子に苦言を呈した。

「お前だけの人生なら会社を辞めること自体どうこう言うつもりはない。でもお前はもうすぐ守るべき家族を持とうとしてるんだからもう自分一人の人生じゃないんだよ。お前が築こうとしてる家庭にとって一番大きなウェイトを占める男の仕事に自分の事情で空白を作っちゃいけない。だから、次どうするかを何も決めないで辞めてしまったのはお前の判断ミスだ。せめて『辞めた』じゃなくて『辞めたい』って状況でここに相談に来て欲しかったな。」

すでに退職届を受理されてからあれこれ言っても仕方ないのだが、息子にとっては仕事を辞めるという経験も初めてだったので、一事が万事、オヤジとしては今後の人生の肥やしにして欲しいという思いからの一言だった。

「・・・」

「今から騒いでも仕方ない 必死になって就活するしかないな… それから失業保険なんかあてにすんなよ  今のお前はそんな悠長なことやってる場合じゃないからな」

「うん 分かってる そうするつもり」

「まあ 厳しいだろうけど頑張れ!」


そうしてこれまでの技術畑の仕事とは真逆の営業職に就きたいと、営業の中途採用を募集している会社を探して3社ほど面接や試験を受け、その結果を待っていたゴールデンウィーク直前のある日、再び私に話があると実家にやってきた神妙な表情の次男からまたまた衝撃の事実を聞くことになった。

「お父さん 赤ちゃんできたみたいなんだよね…」

息子は昨年から結婚を約束した彼女と、彼女のご両親の承諾をいただいたうえで一緒に暮らしていた。
(2011/8月 「けじめ」 http://dairicolum.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html)

彼女は息子が就職して間もなく友達を通して知り合ったという同い年のとても可愛いお嬢さんで、息子とはもう4年の付き合いになるが、2年ほど前からお互い結婚を意識していたことはもちろん知っており、私ら夫婦とも一緒に旅行や食事に行ったりしていたので、今ではすっかり気心の知れた間柄となっている。

二人は仕事をしながら二年くらいお金を貯めて、来年あたりに結婚式を挙げるつもりでいたようだが、若い男女が一つ屋根の下で暮らしていれば、こういう事態が起こるだろうことは同棲を許した段階で互いの両親もある程度覚悟していたことではある。

「とりあえずおめでとう…で、何ヶ月なの?」

「二ヶ月くらい…もちろん産みたいって言ってるんだけど…」

「当り前だ!! でもよりによってこのタイミングとはなぁ…」

そう彼らにとっては確かにタイミングが悪過ぎた。息子としてはすぐにでも先方のご両親に報告すべきところだが、何しろ現在無職の身で何を言っても何の説得力もないことは自明の理だと思った私らは、流石に今回だけは採用の結果が分かってからご両親に報告した方がいいだろうと息子に諭していた。

ところが、息子はまだ就職が決まっていない5月半ばの日曜日、私らには何も告げずに彼女のご実家に赴いて今回の件を報告し、正式に娘さんと結婚させて欲しいと頭を下げてきたという。そして無職である状況もきっちり話したうえで、ご両親の承諾をいただいたと連絡を受けた。

どうやら彼は自分の子を身籠った彼女を見ていて、何も前に進まない状態を一番不安がっているのは彼女自身だと思いやり、何時どうなるか分からない自分の仕事のことでこれ以上話を先延ばしにするのはよくないと考えたようだ。そして、一刻も早く現状を正直に話し、誠意を持って今後の覚悟を話すことで自分を信じてもらい、二人のことを理解してもらおうと決意しての行動だったのである。

結婚は人の縁そのものであり、その運命の出逢いは年齢に関係なくやってくるものだ。それを掴むか見送るかは人それぞれだが、彼ら二人は18歳のときに出逢った縁を運命の出逢いとして受け止め、真剣に育んでいこうとしているのである。きっと先方のご両親も、何の駆け引きもない息子の真直ぐな思いを受け入れて下さったのではないかと感謝している。

私らも、今回だけはそんな息子を少し見直すことができた。


そしてこの6月初旬、息子の気持ちが通じたのか、1人採用の募集に5人が面接を受けたという医薬品の販売会社から内定通知が届いたと報告があった。そこは息子も一番行きたかった会社だと後日言っていたが、数日間の研修を経て正社員となり、今現在は一営業マンとして毎日はりきって勤務しているようである。

色々と順番は前後してしまったが彼らにとってはこれからが本番だ。今度は彼が父親として、家族のために慣れないスーツ姿が板に付くまで仕事をやり倒し、ウチのような…? 明るく素敵な家庭を築いて欲しいものである。


「18日に入籍してくるから ここお願いします」

婚姻届を持ってきた息子が証人欄の記入を求めてきた

「父の日の次の日か…ところでいつ頃産まれるんだ?」

「11月の終わりか12月頃だね」

「そうか…あっという間だぞ 大事にしてやれよ」

「分かってる!」

幸せになれよ・・・

そしてどうやら私とカミさんは 今年中に爺婆になりそうだ

2012年5月31日

「母の日」だけは

『いつもありがとう! とってもおいしいワイン贈ります!』

長男からのメールを嬉しそうに覗き込むカミさん

「ワイン贈ってくれるって~ (^o^♪ 」

「あら そう・・・みんな優しいね~ (;一_一) 」

3日ほど前には次男からカーネーションのフラワーバスケットが贈られていた

娘からは『何も贈らないけど感謝してますから』などと娘らしいメールが届いていたようだ

「母の日」は毎年皆かいがいしく感謝の気持ちを届けて来るが、何故に「父の日」は雑な扱いをされるのかどうにも納得できない。

どこの家庭もそうなのだろうか ひょっとしてウチだけ? クソー!! 悔しぃー!! 


すみません 取り乱しました・・・さて、5月の第2日曜日はご存知の通り「母の日」

そもそも何故「母の日」なるものができたのかは色々な説があるようだが、現在のような「母の日」になったのは、20世紀初めのアメリカでアンナ・ジャービスという女性が起こしたある行動がきっかけなのだそうである。

1907年5月12日の第2日曜日、彼女は自分を慈しみ育ててくれた最愛の母アン・ジャービスの命日だったこの日、母親が生前日曜学校の講師をしていたフィラデルフィアの教会で、花言葉が“亡き母を偲ぶ”という白いカーネーションをたくさんたむけて母親に感謝の意を捧げる会を行った。

彼女の行為は会の参列者に大きな感動を与え、翌1908年5月10日の第2日曜日には同教会に470人の生徒とその母親達が集まり、初めて「母の日」と謳ってその日を祝ったという。

それを期にアンナは支援者らとともに、母への感謝の気持ちを捧げる祝日を作るよう州議会に呼びかけた。やがてその声は大統領にまで届き、1914年アメリカ議会での協議の結果、5月の第2日曜日を「母の日」に制定し、国旗を掲げて母親に感謝の意を示す日とした。

こうして「母の日」は世界中へと広がり、日本に伝わったのは大正時代1920年頃と言われている。当時青山学院大学の客員教授だったアレクサンダー女史により紹介され、その後キリスト教関係の団体が中心となって日本中に広められたという。

そして昭和に入り一旦は3月6日の皇后誕生日を母の日と定めたが、戦後になってアメリカに倣い、日本でも5月の第2日曜日を正式に「母の日」とした。

当時、母親が健在な人は“母の愛”が花言葉の赤いカーネーションを、母親を亡くしてしまった人は白いカーネーションを胸に飾り、母親への感謝の気持ちを示すのが一般的だった。

そのうちに母に花を贈る人が徐々に増え、いつしか「母の日」にはカーネーションを贈るというスタイルが定番となっていたが、現代では母親の好きなものなどをプレゼントするのが主流となっている。


一方「父の日」はというと、こちらもアメリカのワシントン州に住むソノラ・スマート・ドッドという女性が、彼女を男手一つで育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったのがきっかけだと言われている。

ソノラが幼い頃勃発した南北戦争に父ウィリアムが召集され、彼女を含む子供6人を母親が一人で育てることになった。そして数年後に夫は復員したのだが、復員して間もなく母親が過労により亡くなってしまう。その後男手一つで6人の子どもたちを育てた父ウィリアムも、子どもが皆成人した後無念にも亡くなってしまった。

父が亡くなった翌年1910年6月19日の第3日曜日、ソノラはワシントン州の教会で父の栄誉を讃える会を行い、父親の墓前にたくさんの白いバラを供えた。こうして「父の日」のシンボルは白いバラになった。

そしてその2年ほど前からアメリカではすでに「母の日」が浸透していたため、ソノラは当然「父の日」もあるべきだと父に感謝する日を作るよう牧師協会へ嘆願したという。

それから50年以上の歳月が流れた1966年、当時のジョンソン大統領がやっとのことで6月の第3日曜日を「父の日」と定める大統領告示を発し、さらに6年後の1972年、ニクソン大統領時代に正式に国の記念日に制定されたのだという。

日本での「父の日」は1950年頃から広がり始め、現代のように正式に謳われるようになったのは昭和も後半の1980年代になってからだと言われている。


さて、お気付きのように「母の日」が提唱されてから僅か6年で正式に国の記念日に制定されたのに対し、「父の日」はその制定までに半世紀以上の歳月を要している。また日本での「父の日」の認知も「母の日」に遅れること60年である。

アメリカでのタイムラグは第二次世界大戦など、世界情勢の劇的な変遷の時代と重なったことや、当時のアメリカ議会が男性だけで構成されていたため、男性に都合が良過ぎる法案だと懸念されてなかなか可決しなかったことなどが背景にあるようだが、日本で「父の日」が認知されるようになった一番の原因は、デパートやスーパーの売り出しのネタに使われたことだとも言われている。

「父の日」が制定されるきっかけとなったドッド家のエピソードは素晴らしい話なのに、日本でのその認識レベルは何とも寂しいものだ、が・・・


仏教の世界に「与楽抜苦(よらくばっく)」という言葉がある。これもウチの事務所の顧問である高橋宗寛和尚の勉強会でお教えいただいた、私がとても好きな意味を持つ言葉だ。
(高橋和尚はコチラでhttp://dairicolum.blogspot.jp/2011/01/10.html)

もともとは仏や菩薩が衆生を苦しみから救い福楽を与えることをいうそうだが、親子の関係がまさにこの「与楽抜苦」であり、父と母の存在をそのままに表わす言葉でもある。



楽しみを与える「与楽」が父の存在、苦しみを抜く「抜苦」は母の存在だ。

遊びに連れて行ってくれて、楽しいことを何でも教えてくれるのはお父さん… 
病気になったときに看病してくれて、優しく添い寝してくれるのはお母さん…

どちらも子どもにとっては有難いことだろうが、やはり自分が苦しいとき辛いときに、その苦しみや辛さを傍にいるだけで解消してしまう母親の力には、おそらく我々父親なんてまったく敵わないだろう。

何といっても子どもは母の胎内で一年近く守られ、産まれて暫くは母親の栄養を分け与えられながら成長する、まさに母の分身そのものだ。

父と母のどちらが好きとか言う低次元の話ではなく、子どもが母親の存在を強く重く受け止めるのは人間として至極当然のことだと思う。もちろんそれでいいし、子どもたちにはそうであって欲しい。

その意味では「父の日」にはメールの一本もよこさないウチの子どもたちも、母親には毎年感謝の気持ちを伝えることを忘れずにしているので、「母の日」だけは良識ある子どもたちということにしてあげるとしよう。



「いいねぇ母親は・・・ みんなに大事にされて (-ヘ-*)」

「な~に~? ひがんでんの? ( 一o一)」

「別にぃ・・・ まあ良かったじゃん みんな優しい子で ^ ^」

「・・・だね(*^0^*) で? 来月は父の日をテーマに書くの?」

「それ・・・イヤミ? (T_T)」


2012年5月2日

結婚のかたち

「今月末に向こうの実家に行って 結婚のこと話してくるよ」

「そうか まあ親父さんにひたすら頭下げて認めてもらうんだな」

「うん・・・ そのつもり」

この連休 長男が彼女のご両親に結婚の承諾を得るために
先方のご実家のある鹿児島に赴くという

「自信持っていいぞ お前はいい男になった」

「・・・そう?」

「ああ このオヤジが言ってんだから間違いない 大丈夫だ」

「・・・そうか ありがとう!」

「男なら一度はみんな通る道だ 胸張ってしっかりやってこい!」

こんな時くらい 少しは背中を押してやらねばなるまいと
ちょっと脚色強めの褒め言葉を投げかけてやったのだった



子どもたちが結婚を意識する歳頃になり、その結婚というものを改めて親の目線から捉え、話をする機会がこのところやたら増えた。

私ら夫婦が結婚したのは今から27年前の1985年5月。以前このコラム(2010/09『アニバーサリー』)でも少し触れたが、その結婚のかたちは二人だけで式を挙げたハワイの教会から結婚証明書をいただくというものだった。当時は少数派だったと思うが、自分たちが普通の結婚披露宴というものを経験していないこともあって、私もカミさんもあまり結婚のかたち自体にはこだわりを持っていない。

だから最近よく聞く挙式も披露宴も行わずに籍だけ入れるかたちにしても、それが色々な事情を考慮した結果であればまったく構わないと思っている。

ただ、せめて花嫁さんになる女性の方は、色んな事情を考慮するその前に、先ずは自分の花嫁姿を両親に見せたいという気持ちは持っていて欲しい。人生でたった一度と言ってもいい本当の主役となる瞬間の晴れ姿を披露することは、それまで育ててくれたご両親に対する最高の親孝行であり恩返しであるからだ。結婚の披露式は自分たち二人のためだけにあるのではなく、両親のためにもあることをわきまえていることが必要だ。

その意味では、結婚を前提に付き合っている長男の彼女も次男の彼女も、二人とも花嫁衣裳を着たいと言っているとのことなので、そこは良かったと思っている。その披露の方法は自分たちの身の丈に合ったやり方が今はいくらでも選択できるのだから、先ずはそこからスタートして二人でどうするかを考えればいいのである。


そんな息子たちの結婚像を書き進めていたら、ちょうどテレビで現代の若者の結婚事情なる話題が取り上げられていた。

それは内閣府が昨年実施した結婚と家族形成に関する調査をまとめた「子育て白書(http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2011/23webhonpen/html/b1_s2-1-4.html)」からの情報だが、20代~30代の独身者を対象に調査したところ、将来結婚したいと考えている人は、男性が83%、女性が90%と高い割合ではあるものの、逆にそれ以外の男性17%と女性10%は、将来結婚するつもりはないと考えているのだという。

今から30年前、すなわち私らが結婚した1980年代の調査では、後者の割合は男性で5%、女性は僅か2%だったという。確かに21世紀になって雇用機会均等法など国の後押しもあり、ビジネスにおける男女較差はほとんどなくなって、今では女性でも生涯の仕事を持って男性以上に稼ぐ人がどんどん出現するような時代になっている。

女性にとって、結婚の価値観が人生の着地点を意味しなくなったことは事実である。

そして、この白書では将来結婚したいと考えている人の「結婚生活を送る上での不安」に関する調査結果も公表しているのだが、それによると男女ともに「経済的に十分な生活ができるかどうか心配」がトップでそれぞれ50%以上を占めている。

さらに読み進めてみると、男性は「配偶者と心が通わなくなるのではないか」など、結婚相手との関係性を不安視しているのに対し、女性は「配偶者の親族とのつきあい」「出産や子育て」「配偶者や自分の親の介護」など、家庭的な役割を果たすことへの負担をあげている人が非常に多いという結果が出ている。

結婚意欲はあっても、こうしたことが結婚に踏み出せない背景にあるようだ。


私らの親が家庭を築いた昭和前半は、女性が伴侶の家に嫁入りして同居するのが普通の結婚のかたちだった。大きな戦争を経て物のない貧しい時代だったと思うが、仮に亭主の稼ぎが少なくてもとりあえず住む家があり、親子支えあっての生活だから十分ではないにしろまったく飯が食えないということもなかっただろう。

私らが家庭を持った昭和後半は、新婚生活は安アパートなどを借りて夫婦二人で過ごし、子どもが学校へ上がる頃になったら亭主の実家に入って同居するというパターンが結構多かったように思う。時期はともかくいつかは同居がまだ当り前だった。

だが現代は、結婚するのであれば当然に別居して、自分たちだけの独立した経済世帯を成立させることが条件のようになっている。ウチの息子たちにしてもそうだが、自分だけの収入ではやっていけないから当然夫婦共稼ぎとなり、それが当分は子どもを持てない状況を生じさせる。20~30代男性の6人に一人、女性の10人に一人が結婚したくないというのも頷けないではない。

やはり現在日本が抱える少子化問題は、確実に若者の結婚難時代とリンクしており、賃金水準が一向に上がらない状況の中で、さらにこの負のスパイラルが深刻化するのではないかと懸念される。


結婚は他人同士が一つ屋根の下で長年寝食をともにする共同生活だから、気持ちがすれ違う時もあればぶつかり合う時もある。結婚当初私ら夫婦も経験したが、経済力の乏しさはお互いのストレスとなり、それがあらぬ諍いを引き起こす原因にもなる。そして、子どもを持てば持ったで自分たちの時間とお金のほとんどは、その養育のために費やすことになる。見方によってはこれらは結婚という行為がもたらす負の要素と言えるかもしれない。

しかし、私が結婚の好さについて一つだけ自分の経験から自信を持って言えることは、結婚によって誕生したかけがえのない家族一人一人が産み出す無数の喜びは、そんな鼻クソみたいにちっぽけな負の要素など簡単に吹っ飛ばすだけの途方もなくでっかい幸福を家族全員に与えてくれるということだ。

そして、そんな家庭作りこそが結婚することの価値だと私は思っている。



「鹿児島での話はどうだった?」

「初日早々に『結婚させて下さい』と話しました お義父さんから涙目で宜しくと言われました・・・二日目は熊本に連れて行ってもらったり、いっぱいご馳走になって、お義父さんと色んなことたくさん話しました・・・」

「そうか よかった・・・ これからだな!
 帰ったらゆっくり話聞かせてもらうよ」

いつもよりちょっと長めの長男のメールに 私は何故か涙がこぼれた





2012年4月2日

個性を活かして

「この焼酎はグラス売りしかやってなくて・・・どうしてもということなら一升瓶で8,000円になりますが~ どうなさいますか?!」

可愛い顔をした若い店員さんが恐ろしいことを明るく言う

「四人で2時間一升はさすがにきついだろう・・・どうだ?」

「・・・」

立川駅前の宮崎地頭鶏専門店「じとっこ立川店」は
週末につき来客一組2時間の制限を設けていた

メニューを覗き込む私と娘 そして長男とその彼女

「だいじょうぶっしょ このメンバーなら 行けるっしょ!!」

短い沈黙を勢いよく破ったのは 昨年二十歳になったばかりの娘だった
鹿児島生まれ 格別酒豪の兄貴の彼女を十分意識しての一声だろう

オーッ 行きますかー 飲める口ですね~?!

可愛い顔をした若い店員さんが今度は営業にかかる

「ん~よし! じゃあそれ貰おう・・・ただ2時間と言わずにせめて3時間でどう?」

「3時間ですか~ ボトルキープも致しますが・・・」

「いやいや こっちは今夜松本に帰らんといかんのよ」

「今夜ですか~ ・・・分かりました! 店長に交渉してきます!

可愛い顔をした若い店員さんが やっと可愛らしく見えた

ほどなく爽やかなイケメン店長が我々の席までやってきて

「スタッフから伺いました 3時間ですね 結構です 電車の時間まで使って下さい!

さすが!! いや~店長いい男だね~ 大丈夫大丈夫 金はバンバン使うから~ お店もしっかり宣伝しとくからね~」・・・我ながら何ともヤラシイ中年オヤジである


そんなやりとりもあって、飲む前から気分が盛り上がってしまった我々四人は、上質の脂が何とも旨い本場宮崎地頭鶏(じとっこ)焼きを味わいながら、ご当地特産芋焼酎「萬年白麹」25度一升をきっちり空にして、3時間をはるかに超える宴席に幕を下ろし、地鶏ならぬ千鳥足で店を後にしたのだった。



先週末、この4月から神奈川の照明技術会社に就職する長女の住む地に赴いた。

今年1月、娘は蒲田にある専門学校の寮を出て、東京に住む兄貴とその彼女が探してくれた、娘が勤める会社のすぐ近くに位置する神奈川県武蔵中原のアパートに引越したのだが、我が家では一人暮らしをする歳になったら引越しくらい自分でやりなさいという教育方針だったので、息子たちもそうだったように、娘も自分で手配したレンタカーのハイエースと友達二人の手を借りて、レンタカー屋の駐車場から出るときに即ぶつけてしまったハイエースの弁償金2万を払うというアクシデントにも負けず、何とか無事?に引越しを終えたようであった。

ただ、さすがに色々物入りだろうと案じて当日様子を見に行っていたカミさんに、あんたも一度くらい娘のとこに行ってやったらと促されていたこともあり、少しはオヤジらしいところも見せなきゃいかんなと思い立ち、今回の訪問となった次第である。


娘は既に昨年夏頃からその会社でアルバイトなどさせてもらっており、仕事に対しての不安は特にないようだったので、とりあえずこちらの専売特許である給料の税金関係の話、また社会保険や労働保険の仕組みなど、彼女がどこまで理解してくれたかはともかく、社会人として知っといてもらいたい常識的な事柄をノートに書きながら一通りレクチャーしてきた。

しかし、最終的にはそんな面倒なことや先のことをあれこれ考えても仕方ないので、今年一年思いっきり仕事をしてみなさい、そうすれば何か見えてくるものがあるはずだと諭して、娘に対するオヤジとしてのアドバイスはとりあえず締め括らせてもらった。


娘の仕事は主として芸能アーチストのPVやMV撮影に携わる照明技術スタッフ、個人的には照明技師と呼ばれる職業である。

業種がら有名な芸能人を目の前にすることも多いようだが、そこはあくまでプロの仕事。娘曰く、現場は色々な分野の多くのスタッフが協力して一つの作品を長時間かけて作り上げるので、ものすごい緊張感で張り詰めている。そのメインが人気アーチストだからといってそんなことに目を奪われてる場合ではない。些細なミスが引き起こす迷惑は、例えば入力ミスしちゃったから修正しますみたいに自分が責任をとればいいという範疇を超えてしまう。だから周到過ぎる準備と、本番で一瞬たりとも気を抜かない集中力が何より求められるのだという。

そんな立派なことを認識できるようになった娘を見守るだけのオヤジとしては、先ずはプロとしての高い技術と知識をしっかり身につけて、いずれは先輩達のようなレベルの高い仕事を任される一人前の照明技師となれるよう応援するのみである。


此度の娘の就職で我が家の三人の子どもたちは全員社会人ということなった。

誰もが知るような一流企業のサラリーマンでも、公務員のように安定した職でもない。三人とも自身の能力次第で明暗がはっきり分かれる専門色の強い技術系の職業を自らが選択してその仕事に就いている。

だからこそ、先ずは自分が得心できるまでしっかりしたスキルを身につけ、そのスキルを基盤とした自己の個性を追求し、そしてその個性を活かした仕事を世に提供して、どこへ出ても自分らしさを表現できる素敵な大人に成長して欲しいと願っている。



「こんなとこに席があるんだ こりゃまた個性的な造りだなぁ」

午後6時に立川駅で待ち合わせた長男と彼女が予約してくれた冒頭の宮崎地頭鶏専門店「じとっこ立川店」に入ると、秘密基地のような中二階ロフト風の座敷に通された 

「すごいな~ メニューは全部宮崎産って感じなんだ」

「専門店だからね」

低い天井に頭をぶつけそうな状態で座した長男が呟く

「いいんだよ 専門ってのは徹底してるのが大事なんだ あとはその味や雰囲気に客の心をつかむ個性があるかどうかが問題だな」

生ビール お待たせいたしましたー!

可愛い顔をした若い店員さんが元気よく乾杯の生ビールを運んできた

女性の方はこちらになりまーす

「ウワ~ 何これ 泡にハートのラインが入ってる~」

ウチの女子二人が目を見開いて「写メ 写メ」と騒ぐ

カシスオレンジでアレンジしてまーす!

オレンジでアレンジって うめぇーこと言うじゃねえか お姉ちゃん!!

んっ? 中年オヤジの心・・・ つかまれた?

2012年2月26日

OneSoul 松本山雅

「エーッ!! あの試合も行ってたんすかー?」

「もちろんよ~ 今年は全試合行くつもりなんですから~」

相対しているのはある関与先さんで事務を執る 六十代後半の女性


時は2011年12月17日
場所は富山県総合運動公園陸上競技場  して目的は
第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会4回戦
『松本山雅FC vs 横浜F・マリノス』の絶叫応援

「ニュース見たら雪も残ってたみたいで すっごく寒かったんでしょう?」

「う~ん すっごく寒かった~ でもね 心が燃えてるから全然平気なのよ~」

松本山雅の話になると少女のように目をキラキラさせてはいるが
今年五十三になる私より間違いなく一回り以上年上の女性なのだ
このパワーとバイタリティは一体どこから湧いてくるのだろうか

若干引きつつも『この姿勢は見習わないといかんな』と思わせる勢いだ



ご当地信州松本の今年一番の注目は、何といっても昨年12月にJ2昇格を決めた松本山雅FCの活躍だろう。

昇格が決まった当初は、我々の住むここ松本にプロサッカークラブ誕生という夢が現実になった歓喜と興奮ですっかり舞い上がっていた感があるが、ここのところ地域住民総力挙げて松本山雅FCを本格的にサポートしようという空気に満ち溢れている。

JFLの時代から我が山雅サポーターの統率のとれた熱い応援は、浦和や鹿島といった強烈なサポーターを持つJ1クラブチームにも引けを取らないと言われてきた。昨年のアルウィン総合球技場でのホームゲーム平均観客数は約7,500人、これはJ2全20チームと比べても6番目に多い動員数になるそうだ。

どうして松本住民はこれほどまでに松本山雅に対する思い入れが強いのだろう。

地元の人間なら皆知っていると思うが、松本山雅FCの前身は1965年当時の国体県選抜メンバーが中心となって結成された「山雅サッカークラブ」で、この名称は松本市の駅前にあった喫茶店「山雅」に由来している。

店の名前は山好きのマスターが信州の「山」は「優雅」だからと、これを組み合わせて命名したものと言われており、創部当時のメンバーの多くがこの喫茶店の常連で、「山雅」という名がまさに信州らしい名称だと気に入って冠に拝したという訳だ。

1972年松本駅前の大規模な開発事業に伴って店は閉店したが、山雅サッカークラブはその組織を徐々に大きく充実させながら、昭和から平成の現在に至るまで40年以上の歳月を健全に運営してきたことになる。

昨日今日いきなりポッとプロチームが誕生したわけではなく、長年ここ松本に根付いてきた歴史あるクラブだからこそ、キッズから社会人まで幅広いカテゴリーを持つ山雅サッカークラブの選手やスタッフとして実際にチームに関わってきた地元の人が数多くいて、まさしく故郷の母校がプロのクラブチームになったような感覚で、冒頭のお母さんよろしく、老若男女を問わず自然とサポートせずにはいられないという状況になっているのだろう。

そしてもう一つ、そんなサポーターの心を更に強く結束させたのは、何と言っても昨年8月に35歳という若さで急逝した元日本代表DF松田直樹の存在だろう。

あの中田英寿や前園真聖らとともに日本代表の一時代を築いた彼が、JFLの松本山雅に入団したこと自体夢のような話だったわけだが、それが僅か一年足らずで突然死してしまうなんて、あまりに衝撃的で、あまりに辛い出来事だった。


しかしこのドラスティックな事実は、松田直樹を松本山雅FCの永遠の象徴として位置付けることとなり、志半ばで散った彼の魂のもとに、すべてのサポーターがチームを愛する気持ちをより鮮明にさせたのではないだろうか。

もちろん選手たちも然りである。J2昇格を懸けた昨年のJFLリーグ戦終盤の5試合は、亡き松田直樹の魂が山雅イレブンに相応以上の力を発揮させたと言わずにはおれない試合内容だった。死してなおチームメイトを鼓舞する彼の遺志と物言わぬ存在感は、松本山雅の誇り高き財産として未来永劫語り継がれることだろう。

余談だが、松田直樹は私と同じ町内のすぐ近くのマンションに住んでいた。すごい人物が恐いほど近くにいたので逆にホントに居るのかと実感が沸かなかったほどである。そのマンションには他にも山雅の若い選手が何人か住んでいたので、ウチの近所のお店で山雅の選手がバイトしてるなんてのも実は普通に見られる光景だった。考えてみれば本当に地域に密着した親しみ深いプロチームなのである。

私がもう一つ個人的に楽しみにしているのが、松田直樹が生前弟のように可愛がっていたという自称松田の一番弟子、背番号5ボランチの小松憲太選手だ。

彼は数少ない当地長野県の出身だが、何より彼はウチの次男坊と同じ高校のサッカー部で、息子が一年の時のキャプテンだったので、それはそれはとてもお世話になった二つ上の先輩なのである。そんな目の前で見ていた男がJリーガーとなって山雅にいるわけだから、我が家のテンションが必要以上に盛り上がるのも無理はない。

二年前東海学園大学を卒業してすぐ山雅に入団した小松選手は、プロとしては正直まだまだ粗削りだが、豊富な運動量でしつこくボールを追いかけるプレースタイルは、相手に嫌がられる中盤の要としてその成長が期待される。

松田直樹が亡くなったときのインタビューで、「お前とボランチを組みたい」「お前は絶対に伸びるから頑張れ」といつも言われていたと小松憲太は涙ながらに語っていた。その松田直樹の期待と教えを自分のものとして、先ずは試合に使ってもらえる選手になるよう期待を込めて応援して行きたい。


そして今年、J1昇格請負人とも言われる反町康治監督を招聘し、チームとしてはJの舞台に挑戦するに十分な態勢は整った。しかし、J2に上がれば上がったでクリアしなければならない課題もまた多いようだ。

JFLからJ2に昇格するということは、一般企業なら株式市場に上場するようなものなのかもしれない。クラブを運営する会社経営の良し悪しがこれからは直接昇降格の条件になるというのである。

特に来年から導入される「クラブライセンス制度」は、戦績・施設・人事組織・法務・財務の五つの項目に、クラブとして最低限達成すべき50以上の詳細なチェック項目を設定して全クラブを毎年審査し、基準に満たない場合はライセンス不交付となり、リーグへの参加さえできなくなるという。更に運営会社が3期連続赤字を続けたり、債務超過に陥った場合もライセンスが交付されず、すぐさまJFLに降格になるということだ。

単にリーグ戦の成績が良ければ安泰という訳ではないようである。

現在のところ松本山雅はこのクラブライセンス制度の項目をすべてクリアしており、NPO法人として本格的に運営組織を発足してから、平成四年に株式会社松本山雅となって現在に至るまで毎期黒字決算を続けているそうだ。

しかしJ2で戦うためにプロとしての選手を補強した松本山雅FCの年間運営費用は、JFL時代より5千万円以上多い6億3千万円と公表されている。一方でJ2に昇格して180だったスポンサー数は220に増えたという頼もしい支援もあるが、そのうえで松本山雅を経済的に支えるためにも、ホームゲームは山雅サポーターでアルウィンを緑一色に埋め尽くし、アウェイゲームにも数千人単位の応援団を送り込むなどして、とにかく地域住民と行政が一体となって後押しする必要がある。


厳しい経済環境が続くここ信州に、松本山雅の活躍がもたらす経済効果は相当に大きなものになるだろう。だからという訳ではないが、当地松本が、いや信州全体が松本山雅を軸に、同じ夢と期待を持って盛り上がれば自然と地域の活性化に繋がることは言うまでもない。松本と松本山雅FCの関係が、いい意味で大阪と阪神タイガースのような関係になればこんなに嬉しいことはない。

おそらくJ2上位のクラブとの実力差はまだまだ大きい。参戦一年目で驚くような好成績が残せるほどプロリーグは当然甘くはないだろう。反町監督が常々言っているように「今年はあくまで挑戦の年、実践を重ねる中でJで戦えるチームに成長するはず」それを信じて我々サポーターは勝っても敗けても気持ちを切らすことなく一丸となって松本山雅を応援しようではないか。


皆の魂を一つに OneSoul 頑張れ 松本山雅FC!!




2012年1月29日

魂がもたらす力

「夫が・・・ケイさんが・・・昨日亡くなりました」

正月気分に浸りきっていた年明け三日、耳を疑う衝撃の電話が入った

「そんな・・・ ちょっと待って・・・ どうして・・・」

「急性骨髄性白血病で・・・」

受話器の向こうで号泣しながらも、懸命に話そうとする奥さんの声に
涙がどっと溢れてきて「うんうん」と震える声で応えることしかできない
状況を察したカミさんも私の隣で顔を覆ったまま嗚咽を漏らしている

「こどもたちはみんな 大丈夫?」

やっとの思いで一番気にかかっていたことを訊いてみたが

「うん・・・みんな私より気丈にしてくれて・・・助かってます」

その言葉に幼い頃の子どもたちの姿が浮かび 返事すらできなくなってしまった


2012年が明けてすぐ、かけがえのない友が何の前触れもなく逝ってしまった。

彼は私の幼なじみで、限りある親友と呼べる男の一人である。現代では早期発見すれば治る可能性が高いと言われる病気なのに、緊急入院して一週間も経たないうちに、まだ五十二年という短い人生に突然終止符が打たれてしまった。


彼と私とは不思議な縁で繋がれ、そして不思議と多くの共通点があった。

九州長崎に生まれた私が五歳のとき、親の仕事の都合でここ信州は南松本という地に越してきて転入した保育園の同じクラスに彼がいた。そのまま同じ小学校に入学し、そこでもまた一年間同級だった。

彼は保育園の頃から喧嘩が強くて、二日に一度は日課の如く誰かと喧嘩するような暴れん坊だったが、なぜか私とはウマが合って、喧嘩もせずによくメンコやウルトラマンごっこなんかをして一緒に遊んだものだった。

二年に上がるとき、私のウチが松本市の中央に引っ越したので転校することになった。子どもながらに彼とはもう一緒に遊べないのかなとぼんやり思いながら転校した先の小学校に、今度は彼の将来の嫁さんになる人がいた。そしてクラス替えのあった三年生から卒業するまで私は彼女、要するに彼の奥さんと同級生だった。

彼女とは学区も同じだったので中学校も同窓で、高校も偶然同じ私立高校に進学したのだが、その高校に彼も進学していて、嬉しいことにそこでまた私と彼は同窓生になった。

そして彼はその高校で、たまたま同じクラスにいた将来の嫁さんと初めて出逢ったわけだが、今思えば私はそんな二人の幼少期をそれぞれに周知していたことになる。


高校卒業と同時に彼は蕎麦屋、私は寿司屋とお互い修業の世界に入ったのだが、それぞれの事情で二人とも職人の夢は断念して、二十代半ばに会社勤めをするようになった。

その後二人とも高校時代の同級生と結婚し、お互いに順番こそ違うがほとんど同じ歳回りの二人の息子と一人の娘という三人の子宝に恵まれた。

お互い同じ高校の同級生夫婦だから当然カミさん同士も仲が良く、子どもが小さい頃から家族ぐるみの付き合いを続けてきた間柄である。

彼は仕事の関係でもう二十数年前に埼玉に居を構えたが、ここ十年以上大阪や名古屋での単身赴任を強いられていた。そんな環境の中でも年に一、二度帰郷すれば必ず一報くれて、膝を交えて子どもたちの似通ったエピソードを肴に「分かる分かる!ウチも同じ!」などと大騒ぎしながら二人でグラスを傾けるのが本当に楽しみだった。

同じような家族構成だったこともあり、家族ネタの多いこのコラムも必ず目を通してくれていて、しょっちゅう好き勝手な批評をメールで送ってくれたのだが、私にとっては本当に嬉しい彼の気遣いだった。

しかし、その心温まる批評も、もう二度と受けとることはできなくなってしまった。


彼が酔うと決まって口にしていた話が思い出される。

「子どもたちが思春期から大人に成長する大事な時期に、単身赴任でオヤジが傍にいてやれなかったのに、女房がしっかり育ててくれたおかげで三人とも俺に似なくてまともな人間になってくれて嬉しいよ。あいつに・・・女房にホント感謝しなきゃな・・・」

若い頃は喧嘩っ早くてやんちゃだった彼も、歳を重ねて家族思いの優しい素敵なオヤジになっていた。そんな親としての本当の幸せを、やっと子どもたちから返してもらえる歳まで頑張ってきたその矢先だと言うのに、本当に本当に無念だったろう。


亡くなって五日後に埼玉で行われた告別式。会場に入ると会葬者一人一人に気丈に挨拶していた喪主である奥さんが私を確認したとたん、私に駆け寄り私の名を何度も呼びながら人目もはばからず泣き崩れてしまった。敢えて大きなマスクをかけて目立たないようにしていたが、その憔悴しきった真っ赤な瞳は、何の準備もなく突然身体の一部をもぎ取られたような、猛烈に辛い時間を過ごしたことを容易に推測させた。

葬儀の席で弔辞を読ませていただいた私は、思っていた通り震える涙声になってしまったが、それでも自分なりに精一杯の送る言葉を彼に伝えさせてもらった。

そして、最後に喪主の母親に代わって二十六歳になる彼らの長男が発した会葬者への挨拶が圧巻だった。彼が途中から亡き父に向かい、声を震わせながらも最後まで涙を見せずに訴えた本音の叫びに会場にいた全員が心を揺さぶられ感心し涙した。

早過ぎる父親の死によって、その息子がこれほど強く大きくなるものなのか。亡き父が、自らの死をもって自身の具えていた魂の強さを息子にもたらしたと思わずにはいられなかった。

そしてそれは、いつも傍にいるとかいないとかそんなことは問題ではなく、彼が素晴らしい父親であったことを証明する姿に他ならなかった。

この日親友の魂は、彼の財産である子どもたちの心の中で、確実に新たな産声を上げたのだ。



「素晴らしい挨拶だった! もうおじさんも泣かないからな 頑張ろうぜ!」

葬儀が終わり、会葬者を見送っていた長男に手を差し延べながら明るく言うと

「生前、父がよく言ってました。何か困ったことがあったらあいつに相談すれば必ず何とかしてくれる・・・俺にはそういうすごい仲間がいるんだって・・・今日の弔辞をいただいて、その意味がよく分かりました。こんなに素晴らしい親友を持った父を僕も誇りに思います! 本当にありがとうございました!」

彼は私の手を両手でしっかり握りしめたままそう言うと、それまで精一杯こらえていた涙をその日初めて流した。

もう泣かないと言った端から、彼の涙と言葉にまた泣かされて何も言えなくなってしまった私は、暫し彼の肩を抱いたまま頷くことしかできなかった。


「落ち着いたらみんなでオヤジの仲間に会いに来い・・・必ずだぞ」

最後の最後にやっと絞り出した言葉は届いただろうか・・・待ってるからな