「お前おでこ絶対に5センチは上がったよね」
「そういうお前も立ったままじゃ自分のベルト見えないだろ」
「あれっ そんなに目尻の掘り深かったっけ~?」
「失礼ねぇ あごが退化した人に言われたくないわ!」
言い出せば切りがない
まあ無理もない・・・
たぶんもっとも張りのあった年頃に別離てから
ほとんどのメンバーと30年ぶりに再会するのだから・・・
でも不思議なもの・・・
顔を合わせた瞬間は「えっ誰だっけ・・・?」が
数分後には「ぜんぜん変わってないね~」になり
そしてあの頃と同じ毒舌が当り前のように飛び交う
なんなんだろうこの感覚は・・・完全にタイムスリップしてる
たった3年間机を並べていただけなのに
しかも皆何十年ぶりに会ったのに
本当におもしろいものだ・・・
今までほとんどやっていなかった高校の同級会を約30年ぶりに行いました。この辺りの高校は同期の卒業生が一堂に会する卒後30周年記念同窓会というイベントをどこでも開催するようですが、私らの母校でも毎年伝統的に行われています。今年私らの年代がちょうどその年周りになり、たまたま私がそのイベントのクラス代表になったので、一足先にクラス単位の同級会をやってみようと同級生に案内を出して召集してみたのです。
以前このコラム(07/11ゴタ小僧の今昔)でも触れましたが、私らの母校はクラスの垣根がほとんどなく、現役時代はどちらかというと部活や気の合う仲間との付き合いを優先するような風潮が強かったので、実は私らもクラスに関係なく当時の(悪い?)仲間達十人位で卒業した翌年に新年会と称して集まったのですが、それがいつの間にか総勢20人前後が集まる毎年1月2日の「亥子会(“いねかい”*亥年と子年の集まり*極めて単純)」という名称で定着し、それこそ卒後30年間一度も空けることなく現在も続いています。
私とカミさんはこの高校の同級生同士なので、亥子会の悪・・・いや素敵な仲間達とは皆共通の友人でもあり、この新年会には毎年二人で出席しており、今までクラス単位の同級会がなくてもさほど気にもしていませんでした。
従って逆にずっと会っていなかった同級生が急なお誘いにどの位集まってくれるのか、そして一体どんな風に変わっているのかが楽しみでもあり不安でもありました。
当時私らのクラスは総勢50名、そして今回の同級会に駆けつけてくれたのは14名でした。決して多くはありませんが、そのほとんどが本当に30年ぶりの再会となり、集まった一人一人とじっくり話しをするにはちょうどいい間合いだったような気がします。
冒頭の不思議な感覚は、先に紹介した仲間内の会で得られる雰囲気とはまったく異質のものでした。毎年顔を会わせる亥子会の連中は、これまでのそれぞれの人生の変遷をお互いによく知っているし、年一で会っているので一緒に歳を経てきたと言うか、一年一年を積み重ねてきた結果、今日の俺が、またお前がいるみたいな感覚、上手く表現できませんが、毎年一段ずつ上っている階段の踊り場で、一年に一度皆で向かい合って座ってみるかという進行形の感覚を私は持っています。
一方30年ぶりの同級会は、ほとんどのメンバーがパッと見誰か分からないほどのギャップがあるのですが、膝を交えて話しているうちに誰もがあの頃に戻っていくのです。体型や顔のしわや頭髪は間違いなく年輪を重ねて当然に変化してはいますが、瞳の輝きや声、そして話し方なんかが本当にあの頃に戻っていくのです。私はそんな皆と顔を突き合わせて話をしているうちに、当時の教室で向かい合っているような錯覚さえ覚え、話をしている相手に応じて当時の色んなシーンが蘇ってきて、本当にタイムスリップしているような心地よさを感じました。これは私にとってはまったく意外な想定外の感覚、しかし鳥肌が立つような嬉しい経験となりました。
人気テレビドラマ「ごくせん」で、大江戸一家親分役の宇津井建が、孫娘ヤンクミ役の仲間由紀江を諭しながら放った台詞を思い出しました。
「生徒さん方にとって高校時代の1年っていうのは、大人にしたら5~6年分の価値があるんじゃねぇのかな・・・」
私もそう思います。心身ともに最高の成長期である高校時代。新しく覚えること、感じることだらけの毎日を過ごしながら確実に成長していきます。ときには時間を忘れるほど何かに打ち込んだり、バカと言われるほど誰かを好きになったり、周囲に止められるようなことにも真剣になって無茶したりヤンチャしたり・・・そして迷い、悩み、葛藤を繰り返すそんな素の時間を共有する仲間がいつも一緒にいる。おそろしく濃密な期間をお互いが無意識のうちに過ごしていたのではないでしょうか。
人生半ばを過ぎて、色んなことを計算しながらこなす寂しい大人になっている自分に気付きを与えてくれ、また自分にもバカが付くほど素敵な時代があったことを仲間達が思い出させてくれます。
この会の終わりに、私は万年幹事を買って出て「これから毎年やるからなー!」と宣言しました。因みに中学の同級会も毎年1月に行っており、こちらも私が万年幹事になって次回で6年目になります(何だかんだ言ってこういうことが好きなんでしょうね)。
毎回50通近い往復ハガキの案内状を出していますが、1~2日で「喜んで出席します」と返信してくれる人もいれば、まったく返信してくれない人もいます。それぞれの環境や事情そして思いがあるので、この温度差は仕方ないと考えていますが、これからも誰かれ区別せずに出し続けていくつもりです。
それは、私が学生時代の仲間との縁、そして彼らと過ごした時間、空間そのものがかけがいのない財産だと思っているからです。だからこれからも自分の中で大事にしていきたい縁であり、私が動くことでこれが継続するのであれば、喜んでそうして行こうと思っています。
「明けましてオメデトウー!」
コラムを進めている間に年を越してしまった
皆さん本年もどうぞヨロシクお願いします!
「お前も高校最後だね・・・進路も本気で考えなきゃね」
年越しソバを喰いながらカミさんが娘に声をかけた
「新年早々またその話か~い ♪♪」
お笑い大好き、吉本も選択肢の一つと嘯く娘がかわす
「まあ進路も大事だけど、今の仲間と一緒に過ごせるのも
今年が最後だ。思い残すことのない充実した1年にしなさい」
「そのつもりダス!」
ハイテンションなのはお猪口一杯のおとそが効いたか?
2008年11月29日
3ゲーム差の落とし穴
“ゲームカウント 4-1”
スタンドで試合を見守っていた人々もざわつき始めた
“いけるよ!” “ハイッ!”
第5ゲームを取った娘のペアはハイタッチで気合を入れる
相手は確実に来年の県ナンバーワンとも言われる格上の第1シード
まさか秋期新人戦のダブルス準々決勝で敗退するなんて誰も思っていない
そして娘達も勿論最初から負けるつもりはないにしろ
まさかこんなスコアでリードするとは思っていなかった
コートチェンジで1分間のインターバル
このとき二人の心に『落とし穴』がポッカリ空いた・・・ように私には見えた
それまでずっと声を掛け合っていた二人が、そのインターバルでは
ベンチに並んで座ったままそれぞれに遠くを見つめて何かを考えている
『おいおい話をしろよ・・・ここからまた0-0の気持ちだぞ・・・』
二人は一向に声を掛け合わないままそのインターバルを使い切った
カミさんを含む母親応援団の興奮する姿を横目に私は呟いてしまった
「まずいなぁ・・・」
「えっ? 何が何が」
いつも以上にけたたましくカミさんが突っ込んでくる
「・・・お前も知ってるだろ? 3ゲーム差の恐さは・・・」
「ちょっと~ やなこと言わないでよ~」
「まあ次のゲームをどっちが取るかだな・・・」
硬式テニスをやったことがある方はお分かりかもしれませんが、テニスでは3ゲーム差からの逆転が意外に多いことをご存知でしょうか。私も高校3年のある大会の準決勝で3-0から逆転負けした経験があります。
テニスの勝敗は通常2ゲーム以上差をつけて6ゲームを先に取って決まります。従って試合で3ゲーム差が付く場面は、5-2、4-1、3-0になったときです。そして正規の試合では奇数ゲーム終了時にコートチェンジをして通常1分程度のインターバルを取るので、3差がついたあとは必ず一息入れることになります。
この3ゲームリードの局面が実は曲者なのです。
この場面で何故かそれまでとは違う心持ちになることが往々にしてあるのです。
実力も実績も明らかに向こうの方が上で、普通にやったら到底勝てないような相手に対しては特にそうです。そういう相手の場合は、言葉は悪いですが「負けて元々」という気持ちがあるからでしょうか、こちらは割とリラックスした良い状態で試合に入ることができます。勝ち負けに対するこだわりや、余計なプレッシャーがない状態です。その状態で一球一球のボールに集中してプレーしていると、不思議と普段出せないような力や粘りを発揮することがあります。更にまったく逆の立場で試合に臨んでいる相手は、こんなはずではと思っているうちに、普段冒さないようなミスを簡単にするようになり、徐々に焦りの色を濃くしていきます。
この日の娘達も、序盤素晴らしい集中力で伸び伸びとプレーして試合の流れを引き寄せると、あっという間に3-1とリードしました。しかし相手の実力を知っている二人は2ゲーム位のリードでは当然安心することもなく、集中を切らさないようにコート上でポイントの度に声を掛け合い、おそらくこの段階ではまだ勝負の行方なんてまったく頭になかったと思います。そしてその勢いのまま第5ゲームをワンポイントも与えずに奪取して4-1としたのです。
そのインターバルで彼女達の脳裏に浮かんだそれまでとは違う思い・・・
『本当に勝てるかも』という欲と『一つ二つ落としても』という油断
この落とし穴にはまった二人は次のゲームから見事別人になっていました。
試合の結果を考えてゲームを計算するようになり、守りに入った消極的なプレーはイージーミスを誘い簡単に相手にポイントを与えます。こうなると開き直った格上の相手は逆にリズムを取り戻し、実力通りの強烈で正確なショットが決まり始めます。試合の流れを完全に奪われた娘達はあれよあれよと5ゲームを連取され、目前の金星をつかみそこねて結局4-6で敗退してしまいました。
テニスだけでなくスポーツの世界ではメンタルが勝負を左右するとよく言われますが、これはスポーツに限ったことではないと思います。
私たちは日常「もしこんなことを言われたら・・・」とか「もしこんな人だったら・・・」などと、自分自身が勝手に思い描く妄想によって心を揺らし、悩んだり自ら行動を制限するようなことが結構多くはないでしょうか。
これを戒める意味で「平常心であれ」とか「無心になれ」という言葉がありますが、これらは何も考えないとか心を空っぽにすることを言っているのではなく、欲がもたらす妄想から生じる先入観や独りよがりの前提を持たずに、目の前に起こる事象をありのままに受け入れ、それだけに集中して向かうことが大切であることを意味しているのだと思います。
ウチの事務所では、この心の状態に少しでも近付くために毎朝15分間瞑想をしていますが、実際にやってみるとたった15分の間にびっくりするほどの雑念が次々と頭に浮かんでくることが解ります。ひょっとしたら人間は、無意識のうちに一日中あらぬ欲や雑念に支配されて生きているのかもしれません。私たちの瞑想は、これを思い浮かばないようにするのではなく、思い浮かんだ念を自覚して、これを捨て去ることを繰り返す訓練です。言うは易く行うは難しですが、あらゆる場面でこういった妄想に惑わされることなく、その時々の自分の心の状態を覚して整頓できる人であることを目指して取り組んでいます。
今までもそうでしたが、子供たちが真剣勝負に臨むその姿に、親である私たちが一喜一憂させてもらったり、本当に大切なことを再認識させてもらったり、教えてもらうことが多くて感謝感謝です・・・
「惜しかったなー」
帰宅した娘に声をかけた
「・・・どうしてあんなとこでダブっちゃうかなぁ・・・ホント下手くそ!」
問題の第6ゲームが自分のサービスゲームだった娘が涙目で自分に腹を立てる
「まあ技術の問題じゃないけど、確かにあのゲームがすべてだったな・・・
一つ落としてもまだ2ゲームリードって気持ちがどっかにあったんじゃないかな
3ゲーム差が付くまでの気持ちと、付いた後の自分の気持ちに
どんな変化があったかよーく考えてみろ・・・そこが落とし穴なんだよ」
「・・・」
「試合に入ったときの気持ちのままあの第6ゲームを取りきっていたら
間違いなくお前たちが勝ってたよ。勝負でタラレバは言っちゃいけないけど
テニスの3ゲーム差の局面ってのは、もう一回気持ちを入れ直さなきゃいけない
試合を左右するポイントなんだよ・・・
ただ逆もまた然りで3ゲーム差はひっくり返すチャンスってことだ。
まあ今日は悔しいだろうけど、いい経験ができたじゃないか・・・
これからの試合、3ゲーム差の落とし穴にはまらないようにやりきってみろ!」
「・・・ウン!」
やっぱり何ごとも経験 失敗は成功のもとにしたいものです・・・
とは言え、本当は私が一番 『悔しいです!!』
スタンドで試合を見守っていた人々もざわつき始めた
“いけるよ!” “ハイッ!”
第5ゲームを取った娘のペアはハイタッチで気合を入れる
相手は確実に来年の県ナンバーワンとも言われる格上の第1シード
まさか秋期新人戦のダブルス準々決勝で敗退するなんて誰も思っていない
そして娘達も勿論最初から負けるつもりはないにしろ
まさかこんなスコアでリードするとは思っていなかった
コートチェンジで1分間のインターバル
このとき二人の心に『落とし穴』がポッカリ空いた・・・ように私には見えた
それまでずっと声を掛け合っていた二人が、そのインターバルでは
ベンチに並んで座ったままそれぞれに遠くを見つめて何かを考えている
『おいおい話をしろよ・・・ここからまた0-0の気持ちだぞ・・・』
二人は一向に声を掛け合わないままそのインターバルを使い切った
カミさんを含む母親応援団の興奮する姿を横目に私は呟いてしまった
「まずいなぁ・・・」
「えっ? 何が何が」
いつも以上にけたたましくカミさんが突っ込んでくる
「・・・お前も知ってるだろ? 3ゲーム差の恐さは・・・」
「ちょっと~ やなこと言わないでよ~」
「まあ次のゲームをどっちが取るかだな・・・」
硬式テニスをやったことがある方はお分かりかもしれませんが、テニスでは3ゲーム差からの逆転が意外に多いことをご存知でしょうか。私も高校3年のある大会の準決勝で3-0から逆転負けした経験があります。
テニスの勝敗は通常2ゲーム以上差をつけて6ゲームを先に取って決まります。従って試合で3ゲーム差が付く場面は、5-2、4-1、3-0になったときです。そして正規の試合では奇数ゲーム終了時にコートチェンジをして通常1分程度のインターバルを取るので、3差がついたあとは必ず一息入れることになります。
この3ゲームリードの局面が実は曲者なのです。
この場面で何故かそれまでとは違う心持ちになることが往々にしてあるのです。
実力も実績も明らかに向こうの方が上で、普通にやったら到底勝てないような相手に対しては特にそうです。そういう相手の場合は、言葉は悪いですが「負けて元々」という気持ちがあるからでしょうか、こちらは割とリラックスした良い状態で試合に入ることができます。勝ち負けに対するこだわりや、余計なプレッシャーがない状態です。その状態で一球一球のボールに集中してプレーしていると、不思議と普段出せないような力や粘りを発揮することがあります。更にまったく逆の立場で試合に臨んでいる相手は、こんなはずではと思っているうちに、普段冒さないようなミスを簡単にするようになり、徐々に焦りの色を濃くしていきます。
この日の娘達も、序盤素晴らしい集中力で伸び伸びとプレーして試合の流れを引き寄せると、あっという間に3-1とリードしました。しかし相手の実力を知っている二人は2ゲーム位のリードでは当然安心することもなく、集中を切らさないようにコート上でポイントの度に声を掛け合い、おそらくこの段階ではまだ勝負の行方なんてまったく頭になかったと思います。そしてその勢いのまま第5ゲームをワンポイントも与えずに奪取して4-1としたのです。
そのインターバルで彼女達の脳裏に浮かんだそれまでとは違う思い・・・
『本当に勝てるかも』という欲と『一つ二つ落としても』という油断
この落とし穴にはまった二人は次のゲームから見事別人になっていました。
試合の結果を考えてゲームを計算するようになり、守りに入った消極的なプレーはイージーミスを誘い簡単に相手にポイントを与えます。こうなると開き直った格上の相手は逆にリズムを取り戻し、実力通りの強烈で正確なショットが決まり始めます。試合の流れを完全に奪われた娘達はあれよあれよと5ゲームを連取され、目前の金星をつかみそこねて結局4-6で敗退してしまいました。
テニスだけでなくスポーツの世界ではメンタルが勝負を左右するとよく言われますが、これはスポーツに限ったことではないと思います。
私たちは日常「もしこんなことを言われたら・・・」とか「もしこんな人だったら・・・」などと、自分自身が勝手に思い描く妄想によって心を揺らし、悩んだり自ら行動を制限するようなことが結構多くはないでしょうか。
これを戒める意味で「平常心であれ」とか「無心になれ」という言葉がありますが、これらは何も考えないとか心を空っぽにすることを言っているのではなく、欲がもたらす妄想から生じる先入観や独りよがりの前提を持たずに、目の前に起こる事象をありのままに受け入れ、それだけに集中して向かうことが大切であることを意味しているのだと思います。
ウチの事務所では、この心の状態に少しでも近付くために毎朝15分間瞑想をしていますが、実際にやってみるとたった15分の間にびっくりするほどの雑念が次々と頭に浮かんでくることが解ります。ひょっとしたら人間は、無意識のうちに一日中あらぬ欲や雑念に支配されて生きているのかもしれません。私たちの瞑想は、これを思い浮かばないようにするのではなく、思い浮かんだ念を自覚して、これを捨て去ることを繰り返す訓練です。言うは易く行うは難しですが、あらゆる場面でこういった妄想に惑わされることなく、その時々の自分の心の状態を覚して整頓できる人であることを目指して取り組んでいます。
今までもそうでしたが、子供たちが真剣勝負に臨むその姿に、親である私たちが一喜一憂させてもらったり、本当に大切なことを再認識させてもらったり、教えてもらうことが多くて感謝感謝です・・・
「惜しかったなー」
帰宅した娘に声をかけた
「・・・どうしてあんなとこでダブっちゃうかなぁ・・・ホント下手くそ!」
問題の第6ゲームが自分のサービスゲームだった娘が涙目で自分に腹を立てる
「まあ技術の問題じゃないけど、確かにあのゲームがすべてだったな・・・
一つ落としてもまだ2ゲームリードって気持ちがどっかにあったんじゃないかな
3ゲーム差が付くまでの気持ちと、付いた後の自分の気持ちに
どんな変化があったかよーく考えてみろ・・・そこが落とし穴なんだよ」
「・・・」
「試合に入ったときの気持ちのままあの第6ゲームを取りきっていたら
間違いなくお前たちが勝ってたよ。勝負でタラレバは言っちゃいけないけど
テニスの3ゲーム差の局面ってのは、もう一回気持ちを入れ直さなきゃいけない
試合を左右するポイントなんだよ・・・
ただ逆もまた然りで3ゲーム差はひっくり返すチャンスってことだ。
まあ今日は悔しいだろうけど、いい経験ができたじゃないか・・・
これからの試合、3ゲーム差の落とし穴にはまらないようにやりきってみろ!」
「・・・ウン!」
やっぱり何ごとも経験 失敗は成功のもとにしたいものです・・・
とは言え、本当は私が一番 『悔しいです!!』
2008年10月31日
覚悟
「お前たちどうして服を脱ぎっ放しにしてるの~
いつも言ってるでしょう~ ちゃんと片付けなさい!」
珍しく家族全員がウチにいた休日の午後
2階のベランダで洗濯物を取り込みながらカミさんの遠吠えが響く
「ハイハ~イ」 「ホイホ~イ」
何とも気のないふざけた返事のオウム返し
ほどなく階段をドタバタ下りてきたカミさんが私に向って愚痴る
「まったく何回言っても分かんないんだから・・・
お父さんからガツンと言ってやってよ」
横峯さくらと三塚優子の熾烈な優勝争いに見入っていた私は
「うん? そんなの全部資源物に出しゃいいじゃん」
「もう~ いい加減なこと言ってないで・・・」
「冗談じゃないって、そのくらいしなきゃ本気で聞かないさ」
「・・・ホントに?」
「俺はいつもホントでしょ?」
そして二階に向って親としての覚悟を告知した
「おーい お前ら今日から床に放り出してる服は棄てるからなー
どうすりゃいいか言わなくても分かるなー」
「ハ・・・ハーイ!」
どうなることやら・・・
親は自分の子どもに本気で言うことを聞かせたかったら、それ相応の覚悟を持ってものを言わなくてはならないと思います。親として覚悟を持って言ったことは、責任を持って本当に実行することが重要です。
よくある自分本位の脅しやヒステリー、はたまた冗談としか受け止められないような態度や言葉ではなく、本当に大切なことは『ヤベッこりゃ本気だ』と思わせられなければ、親、特に親父としては寂しい限りではないでしょうか。
子どもたちの自殺や殺人といった痛ましい事件や、いじめや不登校といった悲しい現実が当たり前になってしまった昨今の世の中ですが、そんな哀れな話を聞くたびに、当事者であるその親が、しっかりとした覚悟を持ってそれまで我が子に向かい合ってきたのかなと思ってしまいます。
と、親子の問題では強気でそんなことを言える私ではありますが、実は会計事務所という仕事は、「覚悟」という言葉をそうそう簡単に使えないという経験を実に多くさせていただく職業でもあるのです。
私の担当先で、ここ数年の不況のあおりを受けて業績が低迷しために、それまで永年営んできた業種からの事業転換を決断した企業さんがありました。
その経営者のご夫婦は既に年金をもらう年齢だったのですが、その会社を承継するために毎日必死に働いている息子さんのためにも、会社を再構築しなければならないという経営者としての覚悟をされたのです。
しかし、一口に事業転換と言っても、そこには大きな投資や膨大な人的エネルギーが必要で生半可なことではとても実現できるものではありません。
巡回監査の折り、そんな心配を一生懸命話していた私にその経営者の方は仰いました。
「軌道に乗るかどうかなんてやってみなきゃ分からないさ。ただ大袈裟かもしれないが俺は命を賭けてる。もし予定通りにいかなくて、最悪全部なくなっても仕方ない。当然その位の覚悟を持って始めたことだ。だからあんたも会計事務所の立場から、これからも精一杯協力してくれ・・・」
経営者が命と生活のすべてを賭ける覚悟・・・私はこのときの武者震いをはっきりと覚えています。
企業経営者の方々にとっては、事の大小に限らずほとんど毎日が決断と覚悟の連続なのでしょうが、そういった現実を垣間見るたびに、簡単に“覚悟”なんて言えないなと思うと同時に、私らの仕事の責任の重さと、そしてまたある意味やりがいを改めて叩きこまれます。
私たちは、そういった経営者の方々を真にご支援できるように、日々研鑽に努めていきたいと思います。
「ごめんなさい!」
毎月最終木曜日 町内の資源物収集前日の夜
帰宅すると息子と娘が服を詰めたビニール袋を前にひたすら私に謝ってきた
きっと袋に詰めながらカミさんがそうしなさいとでも言ったのだろう
「おいおい“ごめんなさい”じゃなくて、こうするって言ったよね?」
「・・・まさかホントに棄てるなんて思わなくて・・・」
「まさかって、いつもホントだろ? お前らお父さんと何年親子やってんだよ」
「・・・お願いします!これからちゃんとするから棄てないで下さい!」
「謝るくらいなら最初っからテメエの身の回り位ビシッとやっとけ!
いつまで親につまらねえことさせてんだこのバカヤロー!」
「ご、ごめんなさい!!」
これは覚悟じゃなくて単なる対策でした・・・
いつも言ってるでしょう~ ちゃんと片付けなさい!」
珍しく家族全員がウチにいた休日の午後
2階のベランダで洗濯物を取り込みながらカミさんの遠吠えが響く
「ハイハ~イ」 「ホイホ~イ」
何とも気のないふざけた返事のオウム返し
ほどなく階段をドタバタ下りてきたカミさんが私に向って愚痴る
「まったく何回言っても分かんないんだから・・・
お父さんからガツンと言ってやってよ」
横峯さくらと三塚優子の熾烈な優勝争いに見入っていた私は
「うん? そんなの全部資源物に出しゃいいじゃん」
「もう~ いい加減なこと言ってないで・・・」
「冗談じゃないって、そのくらいしなきゃ本気で聞かないさ」
「・・・ホントに?」
「俺はいつもホントでしょ?」
そして二階に向って親としての覚悟を告知した
「おーい お前ら今日から床に放り出してる服は棄てるからなー
どうすりゃいいか言わなくても分かるなー」
「ハ・・・ハーイ!」
どうなることやら・・・
親は自分の子どもに本気で言うことを聞かせたかったら、それ相応の覚悟を持ってものを言わなくてはならないと思います。親として覚悟を持って言ったことは、責任を持って本当に実行することが重要です。
よくある自分本位の脅しやヒステリー、はたまた冗談としか受け止められないような態度や言葉ではなく、本当に大切なことは『ヤベッこりゃ本気だ』と思わせられなければ、親、特に親父としては寂しい限りではないでしょうか。
子どもたちの自殺や殺人といった痛ましい事件や、いじめや不登校といった悲しい現実が当たり前になってしまった昨今の世の中ですが、そんな哀れな話を聞くたびに、当事者であるその親が、しっかりとした覚悟を持ってそれまで我が子に向かい合ってきたのかなと思ってしまいます。
と、親子の問題では強気でそんなことを言える私ではありますが、実は会計事務所という仕事は、「覚悟」という言葉をそうそう簡単に使えないという経験を実に多くさせていただく職業でもあるのです。
私の担当先で、ここ数年の不況のあおりを受けて業績が低迷しために、それまで永年営んできた業種からの事業転換を決断した企業さんがありました。
その経営者のご夫婦は既に年金をもらう年齢だったのですが、その会社を承継するために毎日必死に働いている息子さんのためにも、会社を再構築しなければならないという経営者としての覚悟をされたのです。
しかし、一口に事業転換と言っても、そこには大きな投資や膨大な人的エネルギーが必要で生半可なことではとても実現できるものではありません。
巡回監査の折り、そんな心配を一生懸命話していた私にその経営者の方は仰いました。
「軌道に乗るかどうかなんてやってみなきゃ分からないさ。ただ大袈裟かもしれないが俺は命を賭けてる。もし予定通りにいかなくて、最悪全部なくなっても仕方ない。当然その位の覚悟を持って始めたことだ。だからあんたも会計事務所の立場から、これからも精一杯協力してくれ・・・」
経営者が命と生活のすべてを賭ける覚悟・・・私はこのときの武者震いをはっきりと覚えています。
企業経営者の方々にとっては、事の大小に限らずほとんど毎日が決断と覚悟の連続なのでしょうが、そういった現実を垣間見るたびに、簡単に“覚悟”なんて言えないなと思うと同時に、私らの仕事の責任の重さと、そしてまたある意味やりがいを改めて叩きこまれます。
私たちは、そういった経営者の方々を真にご支援できるように、日々研鑽に努めていきたいと思います。
「ごめんなさい!」
毎月最終木曜日 町内の資源物収集前日の夜
帰宅すると息子と娘が服を詰めたビニール袋を前にひたすら私に謝ってきた
きっと袋に詰めながらカミさんがそうしなさいとでも言ったのだろう
「おいおい“ごめんなさい”じゃなくて、こうするって言ったよね?」
「・・・まさかホントに棄てるなんて思わなくて・・・」
「まさかって、いつもホントだろ? お前らお父さんと何年親子やってんだよ」
「・・・お願いします!これからちゃんとするから棄てないで下さい!」
「謝るくらいなら最初っからテメエの身の回り位ビシッとやっとけ!
いつまで親につまらねえことさせてんだこのバカヤロー!」
「ご、ごめんなさい!!」
これは覚悟じゃなくて単なる対策でした・・・
2008年9月30日
限りある時間
「朝練あるんでしょう~ 早く準備しなさい!」
毎朝恒例のカミさんと娘のバトルが始まった
「いまやってるって~・・・ウッサイなーもう」
高2の娘は生意気にも最近結構言い返す
「自分で7時って言ったらちゃんと7時に出れるようにしなさい!」
「分かってるよー 少しくらい遅れたってアタシだけじゃないんだから・・・」
朝刊のスポーツ欄を見ながら朝食をとっていた私もさすがにこの一言は通せない
「ちょっと待て 自分だけじゃねぇから遅れてもいいってのか?」
「・・・」
「どうして時間守らなきゃいけねぇかまだ分かんねぇのか?」
「・・・」
「ッタクふざけたこと言ってねぇでチャリブッ跳ばしてさっさと行けー!」
こんな私でも真剣に叱ることもある・・・決して紳士的にとは言えないが・・・
改めて言うのもはなはだ恐縮ではありますが、どんな会社にも社訓に「時間厳守」、どんな家庭にも家訓に「時間を守りなさい」と言われるくらい、我々の生活の中で時間を守ることはとても大切であると位置付けられています。
ご承知とは思いますが、私たちの事務所では月次巡回監査という業務で、毎月約束した日の約束した時間に顧客の皆様の事業所やご家庭に訪問して税務会計に関するチェック、経営者や経理担当者の方々との相談、また経理指導や経営支援といった仕事をさせていただいています。本来の営業等でお忙しい皆さんの貴重な時間を割いて行うわけですから、こちらの一方的な都合でその時間を違えるようなことは基本的にあってはなりません。
勿論やむを得ない突発的な事情が生じることもあるので、その場合は事前にアポを取って予定を変更していただくという処置をとることは言うまでもありません。これらはビジネスマンとしてあまりにも当然の対応であることに反論はないと思います。
時間を守るということで脳裏に焼き付いているエピソードが私には2つあります。
ひとつは20年ほど前に取引先金融機関の担当の方から紹介された新規のお客様を初期指導で訪問したときのことです。
そのお客様は一人親方の建築業を営む個人事業者で、奥さんと二人で毎日忙しく仕事を切り盛りされている方でした。紹介してくれた金融機関の担当者に同行して先ずはご挨拶を兼ねて訪問したところ、一通りご相談させていただき早速その日に契約することになりました。
「それでは今月〇日の午前9時に先ほどお話した初期指導に伺います」と次回の予定を告げると、奥さんは壁掛けのカレンダーのその予定日にマジックで大きく“会計事務所 AM9時”とメモされました。私はそれを見届けながらその日は帰りました。
そしてお約束した当日、「おはようございます!」とそのお客様の家の玄関を開けたとき、ちょうど廊下の壁に掛けられた柱時計が“ボーン ボーン”と午前9時の時報を叩いていました。リビングから飛び出してきた奥さんは、『すごい!時間ピッタリ!あたしね、時間に正確な人大好きなの』と仰いました。そして暫くこの業界は時間にルーズな人が多くて嫌気がさすというようなお話を懇々とされていました。
恥ずかしながら当時の私はそこまで時間に対して厳格な意識を持ち合わせていたわけではありません。この日も時間ピッタリに伺ったのは正直たまたまです。
しかし、このたった一つの偶然で結果私はそのお客様からいきなり絶大な信頼を得ることとなり、一昨年高齢化による事業縮小に伴って契約を解除させていただくまでずっと良好な信頼関係を保ったままお付き合いすることができたのです。
私はこの経験から“時間を守ることは、相手との信頼関係を育む出発点である”と理解しました。
そしてもうひとつは、やはり20年以上前に家内のオヤジさんから言われた一言です。
ウチの長男が生まれてすぐだったと思いますが、オヤジさんが親戚を集めて長男のお披露目食事会をやるからと、事務所近くの四川料理のお店を予約してくれたときのことです。
その日の朝、いつものように事務所に出かけるとき「それじゃ今日6時だからお願いね」とカミさんに言われ「ハイヨ」と軽く返して家を出たのですが、私なりの精一杯の仕事終わりが約束の6時ギリギリになってしまいました。ただその時の私の意識は、正直『ここから10分・・・まあ仕事だからしょうがないよな』でした。
「いや~遅くなってすみません」さも急いできましたという雰囲気を醸し出しながら部屋に入った私に、既に乾杯を終え食事を始めていた皆さんは、口々に「お疲れさま~」「忙しいそうだね~」などと声をかけてくれたのですが、オヤジさんの一言は
「いくら仕事だって約束した時間に間に合わせられないようじゃだめだ。みんなが待ってる間の時間はあんた一人のために使われてんだから・・・」でした。
実は家内のオヤジさんという人は、それはそれは時間に対して人一倍厳格な方で、約束した時間の遅くとも5分前には必ずその場所に到着し、その時間になるまで車中で待つなどして時間通りに赴くような人なのです。それは80歳を過ぎた今なお変わることはありません。
私はこの経験から“時間に遅れることは、相手の時間を奪うこと”だと理解しました。
さて、時間は守ることも勿論ですが、どう使うかも極めて重要です。
言うまでもなく時間というものは無限ではありません。仕事や勉強に打ち込む時間、家族や友人と過ごす時間、遊びや趣味に興じる時間、何をしていてもその瞬間瞬間で確実に無くなっていくものです。
私も来年で生を受けて50年になりますが、残された生きる時間は平均寿命からすれば約30年、それは10,950日、262,800時間です。そしてその時間は止まることなく刻一刻と削られていきます。
この私の場合の26万時間が長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだと思いますが、例えば時間をお金に換算すれば、今財布には26万円あるけれど1日24円ずつ確実に消費されるということになります。どうでしょうか?
まあ焦りはしないまでも、少なくとも『全然大丈夫じゃん』と安心してはいられない気がします。とにかく決して無駄使いはできません。
日常の仕事において、皆さんの貴重な時間を奪うことのないように、時間の重要性を初心に戻ってシッカリ認識し直して日々業務に当たりたいと思います。皆さんももし私が約束の時間に遅れたりするようなことがあったら遠慮なく皮肉って下さい。
今回は加齢を原因とするしょうもない慣れが出ているのか、最近ちょっと時間に対してルーズになっている私自身に対しての自戒の念を込めて書きましたので・・・
「お父さ~ん ちょっと起こしてきて~」
(おいおい今日もかよ・・・)
「起きろー!遅れた分だけ仲間の時間を取っちまうってことがまだ分かんねぇのか!このバカタレがー!」
と、分かったように子どもを叱ってる場合ではない・・・
毎朝恒例のカミさんと娘のバトルが始まった
「いまやってるって~・・・ウッサイなーもう」
高2の娘は生意気にも最近結構言い返す
「自分で7時って言ったらちゃんと7時に出れるようにしなさい!」
「分かってるよー 少しくらい遅れたってアタシだけじゃないんだから・・・」
朝刊のスポーツ欄を見ながら朝食をとっていた私もさすがにこの一言は通せない
「ちょっと待て 自分だけじゃねぇから遅れてもいいってのか?」
「・・・」
「どうして時間守らなきゃいけねぇかまだ分かんねぇのか?」
「・・・」
「ッタクふざけたこと言ってねぇでチャリブッ跳ばしてさっさと行けー!」
こんな私でも真剣に叱ることもある・・・決して紳士的にとは言えないが・・・
改めて言うのもはなはだ恐縮ではありますが、どんな会社にも社訓に「時間厳守」、どんな家庭にも家訓に「時間を守りなさい」と言われるくらい、我々の生活の中で時間を守ることはとても大切であると位置付けられています。
ご承知とは思いますが、私たちの事務所では月次巡回監査という業務で、毎月約束した日の約束した時間に顧客の皆様の事業所やご家庭に訪問して税務会計に関するチェック、経営者や経理担当者の方々との相談、また経理指導や経営支援といった仕事をさせていただいています。本来の営業等でお忙しい皆さんの貴重な時間を割いて行うわけですから、こちらの一方的な都合でその時間を違えるようなことは基本的にあってはなりません。
勿論やむを得ない突発的な事情が生じることもあるので、その場合は事前にアポを取って予定を変更していただくという処置をとることは言うまでもありません。これらはビジネスマンとしてあまりにも当然の対応であることに反論はないと思います。
時間を守るということで脳裏に焼き付いているエピソードが私には2つあります。
ひとつは20年ほど前に取引先金融機関の担当の方から紹介された新規のお客様を初期指導で訪問したときのことです。
そのお客様は一人親方の建築業を営む個人事業者で、奥さんと二人で毎日忙しく仕事を切り盛りされている方でした。紹介してくれた金融機関の担当者に同行して先ずはご挨拶を兼ねて訪問したところ、一通りご相談させていただき早速その日に契約することになりました。
「それでは今月〇日の午前9時に先ほどお話した初期指導に伺います」と次回の予定を告げると、奥さんは壁掛けのカレンダーのその予定日にマジックで大きく“会計事務所 AM9時”とメモされました。私はそれを見届けながらその日は帰りました。
そしてお約束した当日、「おはようございます!」とそのお客様の家の玄関を開けたとき、ちょうど廊下の壁に掛けられた柱時計が“ボーン ボーン”と午前9時の時報を叩いていました。リビングから飛び出してきた奥さんは、『すごい!時間ピッタリ!あたしね、時間に正確な人大好きなの』と仰いました。そして暫くこの業界は時間にルーズな人が多くて嫌気がさすというようなお話を懇々とされていました。
恥ずかしながら当時の私はそこまで時間に対して厳格な意識を持ち合わせていたわけではありません。この日も時間ピッタリに伺ったのは正直たまたまです。
しかし、このたった一つの偶然で結果私はそのお客様からいきなり絶大な信頼を得ることとなり、一昨年高齢化による事業縮小に伴って契約を解除させていただくまでずっと良好な信頼関係を保ったままお付き合いすることができたのです。
私はこの経験から“時間を守ることは、相手との信頼関係を育む出発点である”と理解しました。
そしてもうひとつは、やはり20年以上前に家内のオヤジさんから言われた一言です。
ウチの長男が生まれてすぐだったと思いますが、オヤジさんが親戚を集めて長男のお披露目食事会をやるからと、事務所近くの四川料理のお店を予約してくれたときのことです。
その日の朝、いつものように事務所に出かけるとき「それじゃ今日6時だからお願いね」とカミさんに言われ「ハイヨ」と軽く返して家を出たのですが、私なりの精一杯の仕事終わりが約束の6時ギリギリになってしまいました。ただその時の私の意識は、正直『ここから10分・・・まあ仕事だからしょうがないよな』でした。
「いや~遅くなってすみません」さも急いできましたという雰囲気を醸し出しながら部屋に入った私に、既に乾杯を終え食事を始めていた皆さんは、口々に「お疲れさま~」「忙しいそうだね~」などと声をかけてくれたのですが、オヤジさんの一言は
「いくら仕事だって約束した時間に間に合わせられないようじゃだめだ。みんなが待ってる間の時間はあんた一人のために使われてんだから・・・」でした。
実は家内のオヤジさんという人は、それはそれは時間に対して人一倍厳格な方で、約束した時間の遅くとも5分前には必ずその場所に到着し、その時間になるまで車中で待つなどして時間通りに赴くような人なのです。それは80歳を過ぎた今なお変わることはありません。
私はこの経験から“時間に遅れることは、相手の時間を奪うこと”だと理解しました。
さて、時間は守ることも勿論ですが、どう使うかも極めて重要です。
言うまでもなく時間というものは無限ではありません。仕事や勉強に打ち込む時間、家族や友人と過ごす時間、遊びや趣味に興じる時間、何をしていてもその瞬間瞬間で確実に無くなっていくものです。
私も来年で生を受けて50年になりますが、残された生きる時間は平均寿命からすれば約30年、それは10,950日、262,800時間です。そしてその時間は止まることなく刻一刻と削られていきます。
この私の場合の26万時間が長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだと思いますが、例えば時間をお金に換算すれば、今財布には26万円あるけれど1日24円ずつ確実に消費されるということになります。どうでしょうか?
まあ焦りはしないまでも、少なくとも『全然大丈夫じゃん』と安心してはいられない気がします。とにかく決して無駄使いはできません。
日常の仕事において、皆さんの貴重な時間を奪うことのないように、時間の重要性を初心に戻ってシッカリ認識し直して日々業務に当たりたいと思います。皆さんももし私が約束の時間に遅れたりするようなことがあったら遠慮なく皮肉って下さい。
今回は加齢を原因とするしょうもない慣れが出ているのか、最近ちょっと時間に対してルーズになっている私自身に対しての自戒の念を込めて書きましたので・・・
「お父さ~ん ちょっと起こしてきて~」
(おいおい今日もかよ・・・)
「起きろー!遅れた分だけ仲間の時間を取っちまうってことがまだ分かんねぇのか!このバカタレがー!」
と、分かったように子どもを叱ってる場合ではない・・・
2008年8月30日
我が家のオリンピック
「やったー! 勝ったー! ウエノー! ウエノー!・・・ウッ・・ウッ」(泣)
嗚咽と絶叫を繰り返しながら、逃げ回る息子や娘を捕まえて抱きつくカミさん
「いや~ホントよく投げたなー・・・ “ウエノー!君はスゴイぞー!”」
宇津木前監督の仕事を忘れた歓喜の涙声にも拍車をかけられ
感極まった私もさすがにこの時ばかりは叫ばずにはおれなかった
「ちょっとちょっと~ 二人とも近所迷惑だし・・・」
「なんだとー やるか小僧!」
冷ややかな息子を押し倒して暫し首を絞めてはいたが
逆襲を受けたカミさんは上野投手が初めて涙を見せた感動の表彰式を待たずに
ソファーにひれ伏したまま予定通り撃沈するのだった・・・
今月13日に開幕した北京オリンピックも、私たちに数々の興奮と感動を残しつつ閉幕しました。スポーツがとにかく大好物の私ら夫婦にとっては、こんなにワクワクする嬉しい期間はありません。何しろ世界トップクラスのアスリートの真剣勝負をほとんど毎日ライブで見られるのですから・・・
とは言え、自称現役テニスプレーヤー、現在も週休3日でテニスを続けているカミさんのオリンピックへののめり込み方たるや、他人の眼にはちょっと危ない人にしか映らないでしょう。
とにかくどんな競技でも日本選手が出場する試合なら、開始の合図とともに大きな拍手をしながら「よっしゃーガンバレー!」の掛け声を発し、アニマル浜口よろしくまずは気合を入れます。
そして試合中は本人気付いてないようですが、全身を使って選手と同じ動き(任天堂Wiiを思い浮かべて下さい)をしながら歓声と溜息を交互に繰り返し、手に汗握るなんてそんな可愛いものではなく、インターバルの段階で既に汗だく、誰にアピールしているのか分かりませんが「タイム!」と言ってタオルを取り、プレーしている選手より疲労の色を濃くしながらも「よっしゃー!ここからここから・・・」と自分に気合を入れ直し、本人曰く熱中症対策の缶ビール(ホントの目的はそれ?)で水分をとってプレー再会。家族さえ近付けない空間を醸し出し、まったく甲子園で六甲おろしを熱唱する虎ファンの騒ぎどころではないのです。
冒頭のソフトボール金メダルの瞬間は勿論、北島選手が2大会連続2冠を達成したとき、谷本選手が豪快な内股一本で優勝したとき、澤選手がニュージーランド戦で同点ゴールを決めたとき、末綱・前田ペアが世界ランク1位の中国ペアを破ったとき、アンカー朝原選手が日本男子陸上界史上初のトラック競技でのメダルを奪取したゴールの瞬間、彼女は完全に選手に成りきって絶叫乱舞、ガッツポーズの嵐、隣に住む祖父が「どうしたんだー!」と心配してスッ飛んでくる始末・・・ホント笑えません
そして私はというと、何よりボールゲームが大好きなので今日は何チャンネルで何時から日本代表の試合があるかをチェックするのが朝一番の仕事になります。
おーいよいよ“星野ジャパン”も勝負の準決勝かぁ
おいおい“なでしこ”とソフトの試合重なってるじゃん
“柳本ジャパン”も“愛ちゃん”も深夜の録画かい
“サクラジャパン”は朝ばっかりだな~
えっ“オグシオ”夕方?“オグシオ”見たいなー”オグシオ”え~何で夕方?・・・
などと我がままを言いながら、それでもチームジャパンの勝負にやはり一喜一憂し、結果はともかく存分に楽しませてもらいました。
そのボールゲームに関しては、メダルにあと一歩の4位という結果が多かったからでしょうか、終わってから監督コーチの責任とか選手の精神的弱さみたいなことを揶揄する報道が毎日のように流されました。またメダリストに対しても、番組のゲストに呼んでは当り前のように次はロンドンを目指してくれますよね?と、とりあえず最後はそこに持っていけば世間が納得するだろうみたいな風潮がありました。
ここにはちょっと違和感を感じます。
今大会でもあれだけの成績を残した競泳の北島選手や柔道の谷亮子選手に、この段階でどうして次のロンドンを目指すのかなんて確認するのでしょう。レスリングの伊調姉妹が引退するのであれば「お疲れさま、ありがとう」と拍手を贈ることが応援する側の私たちにとって唯一できることではないでしょうか。
「期待」という言葉を盾に過度のプレッシャーを選手に与えながら、それで結果が伴わなければ「どうして勝てなかったの?」「この後はどうするの?」と問い詰める。
代表の選手達は別に国民のために厳しい練習に耐えて世界を目指してきたわけではないでしょう。みんな自分のためにその競技を始め、夢と目標をもってもっと上にと鍛錬してきた結果、日本代表という栄誉を勝ち取りあの場に立ったのです。それだけでも凡人の私たちには到底手の届かないことです。周囲の支えや応援があるからこそそこまで頑張れるという理屈もあるでしょうが、こちらサイドの「期待」を満足させるために、そんな一握りの素晴らしい代表選手たちを相手にして、まだまだ頑張って欲しいと言うのはあまりに身勝手だなぁと私は思います。
日本ソフトボールチームの金メダルは賞賛以外の何ものでもない最高の結果でした。私も結果はともかくと言いましたが、最初からメダルの色なんてどうでもいいとか勝っても敗けてもどっちでもいいなんて決して思っていません。やるからには勿論1等賞になることを期待して応援しています。
ただ私としては、そこに行き着くまでの上野投手の3連投であったり、いつ再発するか分からない心臓病を抱えながら常に笑顔で全力プレーする西山選手と、その爆弾を抱える我が娘をスタンドから手を合わせ、最後まで無事にプレーさせてやってくれと祈り続ける父親の姿であったり、そういった選手一人一人のドラマをこの世界の大舞台で垣間見せてもらい、その過程があるから祈るような思いで真剣に応援できるのです。
しかしまた、そんな選手達の知られざるドラマを教えてくれるのもマスコミです。
願わくば、すべての結果を受けての今後どうするなんてのはおいといて、私たちの知らない選手達のこれまでの真実をもっと報道して欲しいなと思います。
・・・北京オリンピックを通してとりとめのないことを色々語ってしまいましたが、過去に何があったからとか未来はどうするなんてことよりも、やっぱり今その瞬間、その場で全力を尽くす選手と同じ気持ちになって一心不乱に応援するカミさんの姿勢って、ひょっとしたら一番純粋で尊い姿なのかもしれないと、キーボードを叩いているうちに図らずも認めてしまいました。
帰国した星野監督への痛烈な取材をみていたカミさんがポツリ・・・
「どうして星野ジャパン勝てなかったのかね?」
「WBCのときのイチローみたいにプレーで引っ張る選手がいなかったからな・・・」
「誰かいないの? 今の日本にそういう選手」
「どうだろう・・・“鉄人”金本くらいかな」
「おおっ金本! ♪♪六甲おろーしにー颯爽っとー♪♪」
・・・あんたは一生やってなさい
嗚咽と絶叫を繰り返しながら、逃げ回る息子や娘を捕まえて抱きつくカミさん
「いや~ホントよく投げたなー・・・ “ウエノー!君はスゴイぞー!”」
宇津木前監督の仕事を忘れた歓喜の涙声にも拍車をかけられ
感極まった私もさすがにこの時ばかりは叫ばずにはおれなかった
「ちょっとちょっと~ 二人とも近所迷惑だし・・・」
「なんだとー やるか小僧!」
冷ややかな息子を押し倒して暫し首を絞めてはいたが
逆襲を受けたカミさんは上野投手が初めて涙を見せた感動の表彰式を待たずに
ソファーにひれ伏したまま予定通り撃沈するのだった・・・
今月13日に開幕した北京オリンピックも、私たちに数々の興奮と感動を残しつつ閉幕しました。スポーツがとにかく大好物の私ら夫婦にとっては、こんなにワクワクする嬉しい期間はありません。何しろ世界トップクラスのアスリートの真剣勝負をほとんど毎日ライブで見られるのですから・・・
とは言え、自称現役テニスプレーヤー、現在も週休3日でテニスを続けているカミさんのオリンピックへののめり込み方たるや、他人の眼にはちょっと危ない人にしか映らないでしょう。
とにかくどんな競技でも日本選手が出場する試合なら、開始の合図とともに大きな拍手をしながら「よっしゃーガンバレー!」の掛け声を発し、アニマル浜口よろしくまずは気合を入れます。
そして試合中は本人気付いてないようですが、全身を使って選手と同じ動き(任天堂Wiiを思い浮かべて下さい)をしながら歓声と溜息を交互に繰り返し、手に汗握るなんてそんな可愛いものではなく、インターバルの段階で既に汗だく、誰にアピールしているのか分かりませんが「タイム!」と言ってタオルを取り、プレーしている選手より疲労の色を濃くしながらも「よっしゃー!ここからここから・・・」と自分に気合を入れ直し、本人曰く熱中症対策の缶ビール(ホントの目的はそれ?)で水分をとってプレー再会。家族さえ近付けない空間を醸し出し、まったく甲子園で六甲おろしを熱唱する虎ファンの騒ぎどころではないのです。
冒頭のソフトボール金メダルの瞬間は勿論、北島選手が2大会連続2冠を達成したとき、谷本選手が豪快な内股一本で優勝したとき、澤選手がニュージーランド戦で同点ゴールを決めたとき、末綱・前田ペアが世界ランク1位の中国ペアを破ったとき、アンカー朝原選手が日本男子陸上界史上初のトラック競技でのメダルを奪取したゴールの瞬間、彼女は完全に選手に成りきって絶叫乱舞、ガッツポーズの嵐、隣に住む祖父が「どうしたんだー!」と心配してスッ飛んでくる始末・・・ホント笑えません
そして私はというと、何よりボールゲームが大好きなので今日は何チャンネルで何時から日本代表の試合があるかをチェックするのが朝一番の仕事になります。
おーいよいよ“星野ジャパン”も勝負の準決勝かぁ
おいおい“なでしこ”とソフトの試合重なってるじゃん
“柳本ジャパン”も“愛ちゃん”も深夜の録画かい
“サクラジャパン”は朝ばっかりだな~
えっ“オグシオ”夕方?“オグシオ”見たいなー”オグシオ”え~何で夕方?・・・
などと我がままを言いながら、それでもチームジャパンの勝負にやはり一喜一憂し、結果はともかく存分に楽しませてもらいました。
そのボールゲームに関しては、メダルにあと一歩の4位という結果が多かったからでしょうか、終わってから監督コーチの責任とか選手の精神的弱さみたいなことを揶揄する報道が毎日のように流されました。またメダリストに対しても、番組のゲストに呼んでは当り前のように次はロンドンを目指してくれますよね?と、とりあえず最後はそこに持っていけば世間が納得するだろうみたいな風潮がありました。
ここにはちょっと違和感を感じます。
今大会でもあれだけの成績を残した競泳の北島選手や柔道の谷亮子選手に、この段階でどうして次のロンドンを目指すのかなんて確認するのでしょう。レスリングの伊調姉妹が引退するのであれば「お疲れさま、ありがとう」と拍手を贈ることが応援する側の私たちにとって唯一できることではないでしょうか。
「期待」という言葉を盾に過度のプレッシャーを選手に与えながら、それで結果が伴わなければ「どうして勝てなかったの?」「この後はどうするの?」と問い詰める。
代表の選手達は別に国民のために厳しい練習に耐えて世界を目指してきたわけではないでしょう。みんな自分のためにその競技を始め、夢と目標をもってもっと上にと鍛錬してきた結果、日本代表という栄誉を勝ち取りあの場に立ったのです。それだけでも凡人の私たちには到底手の届かないことです。周囲の支えや応援があるからこそそこまで頑張れるという理屈もあるでしょうが、こちらサイドの「期待」を満足させるために、そんな一握りの素晴らしい代表選手たちを相手にして、まだまだ頑張って欲しいと言うのはあまりに身勝手だなぁと私は思います。
日本ソフトボールチームの金メダルは賞賛以外の何ものでもない最高の結果でした。私も結果はともかくと言いましたが、最初からメダルの色なんてどうでもいいとか勝っても敗けてもどっちでもいいなんて決して思っていません。やるからには勿論1等賞になることを期待して応援しています。
ただ私としては、そこに行き着くまでの上野投手の3連投であったり、いつ再発するか分からない心臓病を抱えながら常に笑顔で全力プレーする西山選手と、その爆弾を抱える我が娘をスタンドから手を合わせ、最後まで無事にプレーさせてやってくれと祈り続ける父親の姿であったり、そういった選手一人一人のドラマをこの世界の大舞台で垣間見せてもらい、その過程があるから祈るような思いで真剣に応援できるのです。
しかしまた、そんな選手達の知られざるドラマを教えてくれるのもマスコミです。
願わくば、すべての結果を受けての今後どうするなんてのはおいといて、私たちの知らない選手達のこれまでの真実をもっと報道して欲しいなと思います。
・・・北京オリンピックを通してとりとめのないことを色々語ってしまいましたが、過去に何があったからとか未来はどうするなんてことよりも、やっぱり今その瞬間、その場で全力を尽くす選手と同じ気持ちになって一心不乱に応援するカミさんの姿勢って、ひょっとしたら一番純粋で尊い姿なのかもしれないと、キーボードを叩いているうちに図らずも認めてしまいました。
帰国した星野監督への痛烈な取材をみていたカミさんがポツリ・・・
「どうして星野ジャパン勝てなかったのかね?」
「WBCのときのイチローみたいにプレーで引っ張る選手がいなかったからな・・・」
「誰かいないの? 今の日本にそういう選手」
「どうだろう・・・“鉄人”金本くらいかな」
「おおっ金本! ♪♪六甲おろーしにー颯爽っとー♪♪」
・・・あんたは一生やってなさい
2008年7月31日
エアコン
「お父さんあれ何? ひょっとしてエアコン?」
「おおよ!」
「おぉー やったー!」
「いよいよウチもエアコンかー!」
子供たちが次々に歓声を上げる
「宮里藍ちゃんの三菱『霧が峰』よぉ! 職人の工事費込みで6万と5千両でぃ!」
「・・・って ここだけ?」
「当ったりメェだ~ 何か文句でもあるっツ~のかこの小僧!
涼みたかったらここへ来いってんだベラボウめ~」
「あんた 三丁目の夕日じゃないんだから・・・エアコン付けた位で興奮しないで・・・」
「・・・」
この夏、我が家にもエアコンがやってまいりました。
今の家を建てたのが平成3年ですが、その頃は信州に住んでいる限り自宅にエアコンなど必要ないと思っていました。しかしここ1~2年、この高地信州で35℃を平気で超える異常な猛暑に耐え切れず、遂に導入に踏み切ったというわけです。
そんな大層に言わなくてもと思われるかもしれませんが、私の場合、窓を全開にして扇風機をガンガン回し、缶ビール片手に汗を拭いながら甲子園を駆け回る高校球児に涙するというのが夏の定番であり、数年前までそのスタイルで何の抵抗もなく過ごしてきたのです。加えてカミさんは人一倍冷え性、さらに子供たちは皆体育会系の青春時代を送っていたので、健康に良くないからそんなモンは要らんというのが私のポリシーでした。
従って今回のエアコン導入は、我が家にとっては真夏の一大事に他ならないのです。
現在、盛んに地球温暖化が叫ばれていますが、確かに私らが子供の頃は、真夏でも気温が30℃を超える方が珍しい気候でした。夏休みの楽しみの一つであったプールの時間も今のような猛烈な暑さを感じることは少なく、ぶんどう色に染まった唇に塩を塗り、それでも震えながら遊んでいた日が多かったように思います。
とは言え・・・このまま行ったら地球は本当にどうなってしまうのでしょうか。
オゾン層が完全に破壊されれば地球には生物が住めなくなってしまうと言われています。それが私らの子供たちの世代なのか、その次の世代なのかは分かりません。
しかし、地球がその方向に向かっていることは確かな事実です。それが分かっていても、自分が置かれている環境だけは快適な方向に持って行きたいと考え動いてしまうわがままな私たち・・・そしてその行動がまた自分たちの首を絞める結果となり・・・しかし人間はその結果に対応するため更に強い機能を持った“破壊兵器”を開発するのでしょう。世間では人間が繰り返してきたこの矛盾を日進月歩などと呼んでいますが、一体どこに進んでいるのでしょうか。私たちは、この負の相乗効果からもう戻ることは本当にできないのでしょうか。
(勿論一方で、電気自動車やエコハウスなど、地球を守ろうとする製品開発の動きが活発に行われていることも見逃してはなりませんが・・・)
あまり大きな問題に発展させてしまうとパニくってしまいそうなので身近なところで考えてみましょう。
たとえこの地球が永遠の生命体には成り得ないとしても、今、ここで、私たち一人一人が、その寿命を少しでも紡ぐためにできることはきっとあるはずです。エコバッグでもマイ箸でも、『自分ひとりそんなことしたって・・・』と先入観を持たずに、当り前にやることが必要なことだと思います。
そう言えばウチの事務所でも、男性職員4名全員が“マイ小型扇風機”を自分のデスクに置いています。実はこの動機は、男女の体感温度が8℃違うということで「互いの健康を考え、できる限りエアコンを使わないように各自自助努力しましょう」というウチの持ち味の改善提案に端を発して今ある姿なのですが、別に申し合わせたわけでもなく、それぞれの判断でしかも自腹で設置したものです。4台の小型扇風機が回るその光景を外部の人が見たらちょっと変わった夏の風物詩のように写るかもしれませんが、今にして思えばこれも立派な“エコ”活動になっているのではないかと思います。
もしも現在60億人と言われる全世界の一人一人が、次世代に生きる子供たちのために、今できる“エコ”に繋がる何かを一つ習慣的に実践していけば、地球の癌はひょっとしたら治るかもしれないと思っているのは私だけでしょうか・・・
「このエアコン本当に動くの?」
我が家にエアコンがやってきて1ヶ月、娘がポツリとつぶやいた
夜しかウチにいない子供たちは未だ一度もその恩恵に与っていない
というか一度もエアコンの音さえ聞いていない
(もっともまだ二度しか回していないのだが・・・)
かく言う私もたかが自宅のエアコン1台で
地球滅亡の危機まで考えてしまうとは思わなかった
「まったく大物なのか小心者なのか分からない人よね」
カミさんの一言に悔しくも納得してしまう今日この頃・・・
「おおよ!」
「おぉー やったー!」
「いよいよウチもエアコンかー!」
子供たちが次々に歓声を上げる
「宮里藍ちゃんの三菱『霧が峰』よぉ! 職人の工事費込みで6万と5千両でぃ!」
「・・・って ここだけ?」
「当ったりメェだ~ 何か文句でもあるっツ~のかこの小僧!
涼みたかったらここへ来いってんだベラボウめ~」
「あんた 三丁目の夕日じゃないんだから・・・エアコン付けた位で興奮しないで・・・」
「・・・」
この夏、我が家にもエアコンがやってまいりました。
今の家を建てたのが平成3年ですが、その頃は信州に住んでいる限り自宅にエアコンなど必要ないと思っていました。しかしここ1~2年、この高地信州で35℃を平気で超える異常な猛暑に耐え切れず、遂に導入に踏み切ったというわけです。
そんな大層に言わなくてもと思われるかもしれませんが、私の場合、窓を全開にして扇風機をガンガン回し、缶ビール片手に汗を拭いながら甲子園を駆け回る高校球児に涙するというのが夏の定番であり、数年前までそのスタイルで何の抵抗もなく過ごしてきたのです。加えてカミさんは人一倍冷え性、さらに子供たちは皆体育会系の青春時代を送っていたので、健康に良くないからそんなモンは要らんというのが私のポリシーでした。
従って今回のエアコン導入は、我が家にとっては真夏の一大事に他ならないのです。
現在、盛んに地球温暖化が叫ばれていますが、確かに私らが子供の頃は、真夏でも気温が30℃を超える方が珍しい気候でした。夏休みの楽しみの一つであったプールの時間も今のような猛烈な暑さを感じることは少なく、ぶんどう色に染まった唇に塩を塗り、それでも震えながら遊んでいた日が多かったように思います。
とは言え・・・このまま行ったら地球は本当にどうなってしまうのでしょうか。
オゾン層が完全に破壊されれば地球には生物が住めなくなってしまうと言われています。それが私らの子供たちの世代なのか、その次の世代なのかは分かりません。
しかし、地球がその方向に向かっていることは確かな事実です。それが分かっていても、自分が置かれている環境だけは快適な方向に持って行きたいと考え動いてしまうわがままな私たち・・・そしてその行動がまた自分たちの首を絞める結果となり・・・しかし人間はその結果に対応するため更に強い機能を持った“破壊兵器”を開発するのでしょう。世間では人間が繰り返してきたこの矛盾を日進月歩などと呼んでいますが、一体どこに進んでいるのでしょうか。私たちは、この負の相乗効果からもう戻ることは本当にできないのでしょうか。
(勿論一方で、電気自動車やエコハウスなど、地球を守ろうとする製品開発の動きが活発に行われていることも見逃してはなりませんが・・・)
あまり大きな問題に発展させてしまうとパニくってしまいそうなので身近なところで考えてみましょう。
たとえこの地球が永遠の生命体には成り得ないとしても、今、ここで、私たち一人一人が、その寿命を少しでも紡ぐためにできることはきっとあるはずです。エコバッグでもマイ箸でも、『自分ひとりそんなことしたって・・・』と先入観を持たずに、当り前にやることが必要なことだと思います。
そう言えばウチの事務所でも、男性職員4名全員が“マイ小型扇風機”を自分のデスクに置いています。実はこの動機は、男女の体感温度が8℃違うということで「互いの健康を考え、できる限りエアコンを使わないように各自自助努力しましょう」というウチの持ち味の改善提案に端を発して今ある姿なのですが、別に申し合わせたわけでもなく、それぞれの判断でしかも自腹で設置したものです。4台の小型扇風機が回るその光景を外部の人が見たらちょっと変わった夏の風物詩のように写るかもしれませんが、今にして思えばこれも立派な“エコ”活動になっているのではないかと思います。
もしも現在60億人と言われる全世界の一人一人が、次世代に生きる子供たちのために、今できる“エコ”に繋がる何かを一つ習慣的に実践していけば、地球の癌はひょっとしたら治るかもしれないと思っているのは私だけでしょうか・・・
「このエアコン本当に動くの?」
我が家にエアコンがやってきて1ヶ月、娘がポツリとつぶやいた
夜しかウチにいない子供たちは未だ一度もその恩恵に与っていない
というか一度もエアコンの音さえ聞いていない
(もっともまだ二度しか回していないのだが・・・)
かく言う私もたかが自宅のエアコン1台で
地球滅亡の危機まで考えてしまうとは思わなかった
「まったく大物なのか小心者なのか分からない人よね」
カミさんの一言に悔しくも納得してしまう今日この頃・・・
2008年6月29日
リアクション
「旨いね~ この煮物」
「そう!?」
ある晩、若竹と揚げの煮物に舌鼓を打つと
頬を紅潮させてカミさんが満面の笑みを返した
「ああ お婆ちゃんの味にだいぶ近付いてきたなぁ」
「これでも色々工夫してんのよ~」
黙々と食べている子供たちにも声をかけてみた
「なッ 旨いよな?」
「・・・うん」
(そっけね~な~ この小僧ドモは)
「あのさ~お前ら こんだけ旨いのにもうちょっと何かリアクションないの?」
「・・・だって いつも旨いじゃん・・・」
「あら」
思いがけない息子の一言に更に表情の緩んだカミさんは
飲みかけの酎ハイをどんなもんだいと言わんばかりに一気に飲み干した
(そうきたか・・・まっそれはそれで有りかな)
家族のために毎日一生懸命食事の支度をしておられる世のほとんどのお母さん方にとって、精一杯愛情を込めて作ったお料理に対して、家族からの何らかの反応が有るか無いかでは、そのやりがいも相当違ってくるのではないでしょうか。
勿論それが「旨い!」なら申し分ないところですが、例えば「ちょっと薄味だね」とか「ちょっと甘いかな」でも、言い方さえ誤らなければ無反応よりは数倍嬉しいものでしょう。
これは人間にとって、至極正直な心持ちだと思います。特に周囲の人のために、或いは職場や家庭といった組織のために、普段当り前のようにやっている行為に対してのリアクションはなおさらです。ほんの些細な一言でも、言われた方はそれが心の支えや新たな力となって、またがんばろうと思えるものだと感じます。
しかし、私たちは普段、その間柄が近くなるほどに、時の経過が増すほどに、サラッと反応することに少しずつ疎くなってしまっているような気がします。
心の中では分かっていても、改まっては照れくさくて言葉にできない場合もあるでしょう。
ウチの息子のように「旨い」が当り前になって、いちいち言わなくても分かってるだろうと判断してしまうこともあるかもしれません。
日本には、昔から一を聞いて十を知ることが美徳のような風潮があります。また「阿吽の呼吸」などという言葉があるように、すべてを聞かなくても相手の気持ちを察することができる、正確に先を読む力がある、その場の雰囲気がすぐ分かる、というようなことに長けた人物が優秀であるように言われます。そのこと自体は決して間違ってはいないでしょう。どちらかといえば、人としてしっかり身に付けておきたい必要な能力であることは確かです。
しかし、そういった傾向が強いからでしょうか、私たちは身近な人に対して“感謝”とか“労い”を表す一言を発することがすごく下手です。
言わなくても分かっているではなくて、敢えてそこで一言反応することが、良好なコミュニケーションを育む礎となり、人が成長するきっかけになることも確かな事実だと思います。
もう20年近く前のことですが、私の担当先で内装業を営む会社の当時の社長さんの一言にとても感動したことを思い出します。その社長さんは私の親父くらいの歳周りで現場叩き上げの創業者でしたから、仕事に関してはとても厳しいワンマン社長です。ところが私のような若僧に対しても決して高慢な態度は見せない、一言で言えばとてもできた社長さんでした。
巡回監査でその会社にお邪魔していたある日、当時カーテンの縫製を担当していた年配の女性従業員の方が、外注さんがクレームを受けたために、その方が手直ししたカーテンの出来栄えを社長に報告しに来ました。
一通り報告を受けた社長は、そのカーテンを手にとって
「ご苦労様!これなら大丈夫だね」
そして
「しかしあなたの仕事は本当にいつも丁寧だね・・・助かるよ!」
と、彼女に声をかけました。その女性は社長の奥さんのお姉さんです。創業のときからずっと一従業員として勤務されていた身内の方で、それこそ何も言わなくても分かっている代表的なスタッフなのです。しかしその社長は、ありきたりの「ご苦労様」だけではなく、彼女の良さを一言加えたのです。
ことがクレーム処理だったこともありやや緊張の面持ちだった彼女は、きっと嬉しかったのでしょう、その社長の一言でいつもの笑顔を取り戻し「ありがとうございます!」と言って部屋を出て行きました。
私はその光景を見ながら、この会社の強さはここだなと感じました。
前回、私の親友夫婦の危機を投稿しましたが、そのきっかけはリアクション、相手に対しての反応の希薄さに他ならないと申し上げました。どんなに身近な分かり合った相手でも、機を逃さない一言の反応がどれほど強い活力になるか、誰でも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
人は一人では生きて行けないと言われる所以が実はここにあるのかもしれません。
「今日の夕飯なに?」
部活から帰った娘が開口一番母親に食いついた
「マーボー丼」
「おーやったー!」
「兄ちゃんもこれからだからお風呂の前に食べちゃう?」
「モチのロンですよ!」
ほどなく風呂から上がった半裸の息子が食卓に並んだマーボー丼を眺めて一言
「・・・旨そ」
「いただきまーす!」
(妹)「うまっ!」
(兄)「うまいけど・・・ちょっと辛くネ?」
(母)「キムチも食えんお前に何が分かる!」
(妹)「キャッハッハ そりゃそうだ」
(兄)「ウッセー!俺だって・・・甘口なら・・・食えるし・・・」
既に食事を終えていた私は、そんな家族のやりとりをつまみに
この上なく旨い酒を飲んでいた(そうそう大事なのはそれだって)
~PS~
前回の親友夫婦ですが、約1ヶ月間走り回った彼の努力と多くの人たちの支援のおかげで、何とか最悪の状況は脱したようです。ただ、二人にとってはこれからが本番。お互いの心をしっかりケアしながら、きっと立て直ししてくれると信じています。
「そう!?」
ある晩、若竹と揚げの煮物に舌鼓を打つと
頬を紅潮させてカミさんが満面の笑みを返した
「ああ お婆ちゃんの味にだいぶ近付いてきたなぁ」
「これでも色々工夫してんのよ~」
黙々と食べている子供たちにも声をかけてみた
「なッ 旨いよな?」
「・・・うん」
(そっけね~な~ この小僧ドモは)
「あのさ~お前ら こんだけ旨いのにもうちょっと何かリアクションないの?」
「・・・だって いつも旨いじゃん・・・」
「あら」
思いがけない息子の一言に更に表情の緩んだカミさんは
飲みかけの酎ハイをどんなもんだいと言わんばかりに一気に飲み干した
(そうきたか・・・まっそれはそれで有りかな)
家族のために毎日一生懸命食事の支度をしておられる世のほとんどのお母さん方にとって、精一杯愛情を込めて作ったお料理に対して、家族からの何らかの反応が有るか無いかでは、そのやりがいも相当違ってくるのではないでしょうか。
勿論それが「旨い!」なら申し分ないところですが、例えば「ちょっと薄味だね」とか「ちょっと甘いかな」でも、言い方さえ誤らなければ無反応よりは数倍嬉しいものでしょう。
これは人間にとって、至極正直な心持ちだと思います。特に周囲の人のために、或いは職場や家庭といった組織のために、普段当り前のようにやっている行為に対してのリアクションはなおさらです。ほんの些細な一言でも、言われた方はそれが心の支えや新たな力となって、またがんばろうと思えるものだと感じます。
しかし、私たちは普段、その間柄が近くなるほどに、時の経過が増すほどに、サラッと反応することに少しずつ疎くなってしまっているような気がします。
心の中では分かっていても、改まっては照れくさくて言葉にできない場合もあるでしょう。
ウチの息子のように「旨い」が当り前になって、いちいち言わなくても分かってるだろうと判断してしまうこともあるかもしれません。
日本には、昔から一を聞いて十を知ることが美徳のような風潮があります。また「阿吽の呼吸」などという言葉があるように、すべてを聞かなくても相手の気持ちを察することができる、正確に先を読む力がある、その場の雰囲気がすぐ分かる、というようなことに長けた人物が優秀であるように言われます。そのこと自体は決して間違ってはいないでしょう。どちらかといえば、人としてしっかり身に付けておきたい必要な能力であることは確かです。
しかし、そういった傾向が強いからでしょうか、私たちは身近な人に対して“感謝”とか“労い”を表す一言を発することがすごく下手です。
言わなくても分かっているではなくて、敢えてそこで一言反応することが、良好なコミュニケーションを育む礎となり、人が成長するきっかけになることも確かな事実だと思います。
もう20年近く前のことですが、私の担当先で内装業を営む会社の当時の社長さんの一言にとても感動したことを思い出します。その社長さんは私の親父くらいの歳周りで現場叩き上げの創業者でしたから、仕事に関してはとても厳しいワンマン社長です。ところが私のような若僧に対しても決して高慢な態度は見せない、一言で言えばとてもできた社長さんでした。
巡回監査でその会社にお邪魔していたある日、当時カーテンの縫製を担当していた年配の女性従業員の方が、外注さんがクレームを受けたために、その方が手直ししたカーテンの出来栄えを社長に報告しに来ました。
一通り報告を受けた社長は、そのカーテンを手にとって
「ご苦労様!これなら大丈夫だね」
そして
「しかしあなたの仕事は本当にいつも丁寧だね・・・助かるよ!」
と、彼女に声をかけました。その女性は社長の奥さんのお姉さんです。創業のときからずっと一従業員として勤務されていた身内の方で、それこそ何も言わなくても分かっている代表的なスタッフなのです。しかしその社長は、ありきたりの「ご苦労様」だけではなく、彼女の良さを一言加えたのです。
ことがクレーム処理だったこともありやや緊張の面持ちだった彼女は、きっと嬉しかったのでしょう、その社長の一言でいつもの笑顔を取り戻し「ありがとうございます!」と言って部屋を出て行きました。
私はその光景を見ながら、この会社の強さはここだなと感じました。
前回、私の親友夫婦の危機を投稿しましたが、そのきっかけはリアクション、相手に対しての反応の希薄さに他ならないと申し上げました。どんなに身近な分かり合った相手でも、機を逃さない一言の反応がどれほど強い活力になるか、誰でも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
人は一人では生きて行けないと言われる所以が実はここにあるのかもしれません。
「今日の夕飯なに?」
部活から帰った娘が開口一番母親に食いついた
「マーボー丼」
「おーやったー!」
「兄ちゃんもこれからだからお風呂の前に食べちゃう?」
「モチのロンですよ!」
ほどなく風呂から上がった半裸の息子が食卓に並んだマーボー丼を眺めて一言
「・・・旨そ」
「いただきまーす!」
(妹)「うまっ!」
(兄)「うまいけど・・・ちょっと辛くネ?」
(母)「キムチも食えんお前に何が分かる!」
(妹)「キャッハッハ そりゃそうだ」
(兄)「ウッセー!俺だって・・・甘口なら・・・食えるし・・・」
既に食事を終えていた私は、そんな家族のやりとりをつまみに
この上なく旨い酒を飲んでいた(そうそう大事なのはそれだって)
~PS~
前回の親友夫婦ですが、約1ヶ月間走り回った彼の努力と多くの人たちの支援のおかげで、何とか最悪の状況は脱したようです。ただ、二人にとってはこれからが本番。お互いの心をしっかりケアしながら、きっと立て直ししてくれると信じています。
2008年5月30日
青天の霹靂?
今回はちょっと重い話で恐縮ですが・・・
「青天の霹靂」という言葉があります。
病床に伏していた中国の有名な詩人が突然起き出して筆を走らせ、そのとき表現した「青天、霹靂を飛ばす」という言葉が語源と言われています。元々はその詩人の鬼気迫る姿から、筆に勢いがあることを示す言葉だったそうです。その由来からすると、本来良いことがあった時に用いられるはずなのですが、現代では“雲一つない澄んだ青空に突然雷が鳴る”という意味からでしょうか、まったく予想外のことやとんでもない事件が突然自分の身に降りかかるという最悪の状況を表す場合などにもよく使われます。
人生には本当に信じられないことが起こるものです・・・
春本番、もうすぐゴールデンウェーク突入というある日
高校時代の親友から一本の電話が入りました。
住宅ローンの返済が長期間滞ったために自宅が競売に掛けられる。しかも、家計も家庭もすべてを安心して任せてきた奥さんが、消費者金融から多額の借金をしていたというのです。
「うそ・・・」 私は絶句してしまいました。
今まで仕事もろくにせず“飲む、打つ、買う”と好き勝手な生活をしてきた結果だというのなら、いくら親友とはいえ自業自得だから仕方ないとしか思えないでしょう。
しかし彼は、高校卒業と同時に都会の大手一流企業に勤務し、高卒という逆境に負けることなく、現在我々の仲間内ではおそらく最高の収入とポジションを、持ち前の明るい人柄と人一倍の努力で培ってきた男なのです。
勿論、私たちは昔からの家族ぐるみの付き合いですから、彼の奥さんのこともよく知っています。優しくてとてもしっかりした芯の強い女性で、家族をこよなく愛し大切にしてきた素敵な奥さんです。
そんな順風満帆の家庭だったはずなのに一体何があったというのか・・・
とにかく事態が緊迫していたので、私は彼の今後の仕事に支障が出ないよう会社に事情を説明して、同時に弁護士への相談ができるよう斡旋してもらうこと。サラ金からの借金の詳細を明らかにして、その条件や保証の関係を調べて対応することなどを進言しました。
翌日彼から、とりあえず会社側の理解は得られたので仕事の方は大丈夫であること、サラ金へも直接行って今後の対処を相談した結果、今すぐどうこうという心配はないとの連絡がありました。
「なぜ?」という疑問を残しつつも、私はひとまず胸をなでおろしました。
そして数日後、とにかく会って話したかったと一人帰郷した彼とグラスを傾けながら、今回のいきさつをじっくり聴きました。
彼の話を聴いた私は、家庭や夫婦を繋いでいくことの難しさ、怖さを改めて考えさせられました。
結局彼らに決定的な「何が」は、なかったのです。
日常の生活の流れの中、どこかでほんの少しだけ咬み合わなかった歯車に気付かずに、それが長い年月をかけて徐々に大きな狂いとなって、遂にその歯車が止まってしまったのです。
多忙を極める仕事、妻に対する全幅の信頼という自分に都合のいい言い訳を楯にして家庭を顧みなかった夫。
できる妻であるために、本当は寂しくそして大変だったのに、虚勢を張って大丈夫と言い続けた妻。
夫は家族を守るために、妻は夫の心強い伴侶となるために、二人のスタートはきっと間違っていなかったはずです。
しかし、社会にもまれながら自分たちの生活がある程度軌道に乗ってきた頃から、お互いの気持ちの軌道にズレが生じ、どこかで相手に対する気遣いが薄れ、安心が慢心に変わっていたことに気付くことができなかったのだと思います。
この間、一緒に仕事でもしていなければ夫と妻の過ごす時間は、その環境や関わる人々がまったく違う中で流れていきます。でも本人にとっては、その環境や状況が当り前の日常に他なりません。その自分にとっての当り前が、相手にとっても当り前と思ってしまうところに、僅かなほころびが生じる原因があるのかもしれません。
彼は言いました
「お前に電話した前の晩、女房は死に場所を探してたんだ・・・俺に合わせる顔がないって・・・でも女房は悪くない、全て俺の責任だ・・・あいつの気持ちを察してやれずにそこまで追い込んでしまった、人間としての俺の未熟さが招いた結果なんだ・・・」
私は返しました
「本当にそう考えられるなら、これからどうするかが大事なことなんじゃないか?このままだったら完全に崩壊してしまうから、きっと神様がその一歩手前でお前たち夫婦に課した試練なんだよ。仮に失うのが金やモノだけで済むなら御の字じゃないか。今回のことでお前にとって本当に大事なものが何かを確認できたんだ、お互いを見つめ直すチャンスをもらったんだよ。だから家族皆で力を合わせて乗り越えるしかないだろ!」
これは「青天の霹靂」なんかではない、予想外の突然の事故ではなく、起こるべくして起こってしまったことだと私は思います。ひょっとしたら世の中に「青天の霹靂」なんてものはないのかもしれません。すべての事象には、やはりそれ相応の原因があるのではないでしょうか。
そしてその原因のほとんどは、自分の“我”(エゴ)がもたらす産物であることに間違いありません。
彼は何とかこの非常事態を回避するために今も奔走しています。
こんなとき我々友人にできることなんて高が知れてます。
せめて彼らの気持ちが折れないように応援するしかありません。
人の振り見て・・・私たちも見つめ直さなければなりません。
「言わなくても分かってる」なんてことはないことを・・・
分かっていても「ありがとう」とお互いに言葉をかける大切さを・・・
多くのことを考えさせられた一件ですが、今はただ祈るだけです
“お前ならできるはず 頑張ってくれ!”
「青天の霹靂」という言葉があります。
病床に伏していた中国の有名な詩人が突然起き出して筆を走らせ、そのとき表現した「青天、霹靂を飛ばす」という言葉が語源と言われています。元々はその詩人の鬼気迫る姿から、筆に勢いがあることを示す言葉だったそうです。その由来からすると、本来良いことがあった時に用いられるはずなのですが、現代では“雲一つない澄んだ青空に突然雷が鳴る”という意味からでしょうか、まったく予想外のことやとんでもない事件が突然自分の身に降りかかるという最悪の状況を表す場合などにもよく使われます。
人生には本当に信じられないことが起こるものです・・・
春本番、もうすぐゴールデンウェーク突入というある日
高校時代の親友から一本の電話が入りました。
住宅ローンの返済が長期間滞ったために自宅が競売に掛けられる。しかも、家計も家庭もすべてを安心して任せてきた奥さんが、消費者金融から多額の借金をしていたというのです。
「うそ・・・」 私は絶句してしまいました。
今まで仕事もろくにせず“飲む、打つ、買う”と好き勝手な生活をしてきた結果だというのなら、いくら親友とはいえ自業自得だから仕方ないとしか思えないでしょう。
しかし彼は、高校卒業と同時に都会の大手一流企業に勤務し、高卒という逆境に負けることなく、現在我々の仲間内ではおそらく最高の収入とポジションを、持ち前の明るい人柄と人一倍の努力で培ってきた男なのです。
勿論、私たちは昔からの家族ぐるみの付き合いですから、彼の奥さんのこともよく知っています。優しくてとてもしっかりした芯の強い女性で、家族をこよなく愛し大切にしてきた素敵な奥さんです。
そんな順風満帆の家庭だったはずなのに一体何があったというのか・・・
とにかく事態が緊迫していたので、私は彼の今後の仕事に支障が出ないよう会社に事情を説明して、同時に弁護士への相談ができるよう斡旋してもらうこと。サラ金からの借金の詳細を明らかにして、その条件や保証の関係を調べて対応することなどを進言しました。
翌日彼から、とりあえず会社側の理解は得られたので仕事の方は大丈夫であること、サラ金へも直接行って今後の対処を相談した結果、今すぐどうこうという心配はないとの連絡がありました。
「なぜ?」という疑問を残しつつも、私はひとまず胸をなでおろしました。
そして数日後、とにかく会って話したかったと一人帰郷した彼とグラスを傾けながら、今回のいきさつをじっくり聴きました。
彼の話を聴いた私は、家庭や夫婦を繋いでいくことの難しさ、怖さを改めて考えさせられました。
結局彼らに決定的な「何が」は、なかったのです。
日常の生活の流れの中、どこかでほんの少しだけ咬み合わなかった歯車に気付かずに、それが長い年月をかけて徐々に大きな狂いとなって、遂にその歯車が止まってしまったのです。
多忙を極める仕事、妻に対する全幅の信頼という自分に都合のいい言い訳を楯にして家庭を顧みなかった夫。
できる妻であるために、本当は寂しくそして大変だったのに、虚勢を張って大丈夫と言い続けた妻。
夫は家族を守るために、妻は夫の心強い伴侶となるために、二人のスタートはきっと間違っていなかったはずです。
しかし、社会にもまれながら自分たちの生活がある程度軌道に乗ってきた頃から、お互いの気持ちの軌道にズレが生じ、どこかで相手に対する気遣いが薄れ、安心が慢心に変わっていたことに気付くことができなかったのだと思います。
この間、一緒に仕事でもしていなければ夫と妻の過ごす時間は、その環境や関わる人々がまったく違う中で流れていきます。でも本人にとっては、その環境や状況が当り前の日常に他なりません。その自分にとっての当り前が、相手にとっても当り前と思ってしまうところに、僅かなほころびが生じる原因があるのかもしれません。
彼は言いました
「お前に電話した前の晩、女房は死に場所を探してたんだ・・・俺に合わせる顔がないって・・・でも女房は悪くない、全て俺の責任だ・・・あいつの気持ちを察してやれずにそこまで追い込んでしまった、人間としての俺の未熟さが招いた結果なんだ・・・」
私は返しました
「本当にそう考えられるなら、これからどうするかが大事なことなんじゃないか?このままだったら完全に崩壊してしまうから、きっと神様がその一歩手前でお前たち夫婦に課した試練なんだよ。仮に失うのが金やモノだけで済むなら御の字じゃないか。今回のことでお前にとって本当に大事なものが何かを確認できたんだ、お互いを見つめ直すチャンスをもらったんだよ。だから家族皆で力を合わせて乗り越えるしかないだろ!」
これは「青天の霹靂」なんかではない、予想外の突然の事故ではなく、起こるべくして起こってしまったことだと私は思います。ひょっとしたら世の中に「青天の霹靂」なんてものはないのかもしれません。すべての事象には、やはりそれ相応の原因があるのではないでしょうか。
そしてその原因のほとんどは、自分の“我”(エゴ)がもたらす産物であることに間違いありません。
彼は何とかこの非常事態を回避するために今も奔走しています。
こんなとき我々友人にできることなんて高が知れてます。
せめて彼らの気持ちが折れないように応援するしかありません。
人の振り見て・・・私たちも見つめ直さなければなりません。
「言わなくても分かってる」なんてことはないことを・・・
分かっていても「ありがとう」とお互いに言葉をかける大切さを・・・
多くのことを考えさせられた一件ですが、今はただ祈るだけです
“お前ならできるはず 頑張ってくれ!”
2008年4月29日
アイディア
「お父さ~ん 風呂場の取っ手が壊れて戸が閉まらないよ~」
ある晩自宅の風呂場で息子が騒いでいる
「え~ホントに?・・・またお前が乱暴に扱ったんじゃねーのか?」
「俺じゃねーし! とにかくどうすればいい?」
風呂場に行ってみると、どうやら上下に動かして開閉する取っ手内部のスプリングが切れたようで、ダランと真下に落ちたままになっている
「こりゃ業者に頼まなきゃ直せないなぁ・・・
お前試しに手で押さえたまま風呂入ってみるか?」
「冗談言ってる場合じゃねーし、俺裸だし、このままじゃ風邪ひくし」
「お前その“しィしィ”言うのやめろ!まったく『しィのみ学園』の生徒か!」
「そんな学校知らねーし!大体スベッてるし・・・」
「何ごちゃごちゃワケの分からないこと言ってるの」
スッタモンダしているところにカミさんが登場した
「どうしたって?・・・ふ~ん・・・・・・ちょっと待ってて」
カミさんは台所からゴム製の吸盤と、髪留めに使うゴムひもを持ってきた。そしてダランと落ちた取っ手の先にゴムひもを巻きつけ、その反対側を吸盤に縛り付け、その吸盤を取っ手を上げた状態のところまで引っ張り上げて取っての上のステンの部分に貼り付けた。この間僅か15秒・・・あんた、しょ、職人?
「これでよしと・・・ほら閉めてごらんなさい」
“カチッ!”
「オーッ!!」
私と息子は同時に大きな歓声を上げた
「すっげーお母さんってさすが天才! お父さんさすが中学技術3!」
「あれ?お前何で知ってんの?まっ、とりあえずこれで当分使えるな・・・」
「・・・これ応急処置だし、ちゃんと直した方がよくね?」
「お、おうよ・・・」
どんなご家庭にも、ちょっとしたアイディアを活かした暮らし向きというか、そのウチならではの生活の工夫というものがあるのではないでしょうか。
私が仕事でお邪魔する顧客の皆さんの会社やご家庭でも、あちこちに我が家でも参考にしたいようなアイディアや工夫を発見することがあります。
玄関を開けると癒し系の芳しいアロマの香がいつも漂っている。
8段の回転式靴入れで大家族の何十足という靴をきちんと整理している。
大き目の収納の真中に棚をつけて合理的により多くの物を収納する。
カレンダー式の薬箱でお年寄りが間違いなくお薬を服用できるようにする。
おそらく毎日の仕事や生活を重ねる中で、こうした方がもっと合理的に、或いは簡単、快適、正確に物事が進むのではと、アイディアが閃いて、そこに工夫を凝らして定着したことなのでしょう。
このコラムを始めた頃、企業が生き残るためには「改革と改善」が重要というテーマで何本か投稿しましたが、その改善すべき事柄をどんな方法で具現化するかという段で必要なのが、アイディアと工夫だと思います。
何らかの要因によって業績低迷に陥った企業が、新規顧客を開拓しようとか売上げを挽回しようとしたときに、ただ「がんばろう」とか「意識しよう」などと声を掛け合うだけでは成果は上がりません。
その要因を外部に転嫁するような思考パターンになってしまっていては残念ながら論外ですが、その要因をしっかり分析した上で、顧客を増やすためのアイディアは?そのアイディアを活かす工夫は?と掘り下げていく思考パターンを是非定着させたいものです。
事実この厳しい社会情勢の中でも、業種や規模を問わず、多くの顧客に支持されて良好な業績を挙げている中小零細企業は存在します。そしてそれらの企業に共通して言えることは、顧客や地域社会に喜ばれる商品やサービスを提供するためのアイディアを日常的に考え出し動いていることです。
年に1度のキャンペーンのように構えて行うのではありません。少しくらい失敗しても結果が出なくても、それを踏み台にして、そこからまた新しいアイディアを次々と考えていくのです。こういった企業はそれが常態化しているところがすごいのです。更にそんな企業では、そこで働く従業員さんが夢を持って仕事に励むための快適な職場環境に対しても、色々な工夫を実践していると言われます。
私どもの事務所では、そんな知られざる元気の良い企業さんを紹介する「経営者の四季」、そして営業、経理、労務といったあらゆる分野の業務に関する情報や工夫を提案する「マネジメント・レターP!」を毎月顧客の皆様に提供しています。
それは言うまでもなく、自ら考え出すアイディアを駆使してそれを提供し、そのアイディアがお客様に受け入れられたときの達成感がやりがいのある仕事そのものであり、その達成感を得るための工夫を凝らす大切さを皆さんに感じていただきたいからなのです。
この情報誌に書かれていることは決して理想なんかではありません。現に実践し、成功しているお仲間がいることを知っていただき、そして何か一つでもお仕事のお役に立つよう有効に活用していただければ幸いです。
「お父さ~ん また取れちゃったよ~」
数日後、風呂場から情けない息子の声がまた響いた
「やっぱダメか~・・・ ン? 何だ吸盤が外れただけじゃないか」
「最近これすぐ取れちゃうんだよ」
「そうか・・・じゃ明日もっといい吸盤買ってくるわ」
「・・・だからちゃんと直した方がよくね?」
我が家の風呂の取っ手は、カミさんのアイディアで今も健在である。
吸盤はより強力な3個目となったが・・・
ある晩自宅の風呂場で息子が騒いでいる
「え~ホントに?・・・またお前が乱暴に扱ったんじゃねーのか?」
「俺じゃねーし! とにかくどうすればいい?」
風呂場に行ってみると、どうやら上下に動かして開閉する取っ手内部のスプリングが切れたようで、ダランと真下に落ちたままになっている
「こりゃ業者に頼まなきゃ直せないなぁ・・・
お前試しに手で押さえたまま風呂入ってみるか?」
「冗談言ってる場合じゃねーし、俺裸だし、このままじゃ風邪ひくし」
「お前その“しィしィ”言うのやめろ!まったく『しィのみ学園』の生徒か!」
「そんな学校知らねーし!大体スベッてるし・・・」
「何ごちゃごちゃワケの分からないこと言ってるの」
スッタモンダしているところにカミさんが登場した
「どうしたって?・・・ふ~ん・・・・・・ちょっと待ってて」
カミさんは台所からゴム製の吸盤と、髪留めに使うゴムひもを持ってきた。そしてダランと落ちた取っ手の先にゴムひもを巻きつけ、その反対側を吸盤に縛り付け、その吸盤を取っ手を上げた状態のところまで引っ張り上げて取っての上のステンの部分に貼り付けた。この間僅か15秒・・・あんた、しょ、職人?
「これでよしと・・・ほら閉めてごらんなさい」
“カチッ!”
「オーッ!!」
私と息子は同時に大きな歓声を上げた
「すっげーお母さんってさすが天才! お父さんさすが中学技術3!」
「あれ?お前何で知ってんの?まっ、とりあえずこれで当分使えるな・・・」
「・・・これ応急処置だし、ちゃんと直した方がよくね?」
「お、おうよ・・・」
どんなご家庭にも、ちょっとしたアイディアを活かした暮らし向きというか、そのウチならではの生活の工夫というものがあるのではないでしょうか。
私が仕事でお邪魔する顧客の皆さんの会社やご家庭でも、あちこちに我が家でも参考にしたいようなアイディアや工夫を発見することがあります。
玄関を開けると癒し系の芳しいアロマの香がいつも漂っている。
8段の回転式靴入れで大家族の何十足という靴をきちんと整理している。
大き目の収納の真中に棚をつけて合理的により多くの物を収納する。
カレンダー式の薬箱でお年寄りが間違いなくお薬を服用できるようにする。
おそらく毎日の仕事や生活を重ねる中で、こうした方がもっと合理的に、或いは簡単、快適、正確に物事が進むのではと、アイディアが閃いて、そこに工夫を凝らして定着したことなのでしょう。
このコラムを始めた頃、企業が生き残るためには「改革と改善」が重要というテーマで何本か投稿しましたが、その改善すべき事柄をどんな方法で具現化するかという段で必要なのが、アイディアと工夫だと思います。
何らかの要因によって業績低迷に陥った企業が、新規顧客を開拓しようとか売上げを挽回しようとしたときに、ただ「がんばろう」とか「意識しよう」などと声を掛け合うだけでは成果は上がりません。
その要因を外部に転嫁するような思考パターンになってしまっていては残念ながら論外ですが、その要因をしっかり分析した上で、顧客を増やすためのアイディアは?そのアイディアを活かす工夫は?と掘り下げていく思考パターンを是非定着させたいものです。
事実この厳しい社会情勢の中でも、業種や規模を問わず、多くの顧客に支持されて良好な業績を挙げている中小零細企業は存在します。そしてそれらの企業に共通して言えることは、顧客や地域社会に喜ばれる商品やサービスを提供するためのアイディアを日常的に考え出し動いていることです。
年に1度のキャンペーンのように構えて行うのではありません。少しくらい失敗しても結果が出なくても、それを踏み台にして、そこからまた新しいアイディアを次々と考えていくのです。こういった企業はそれが常態化しているところがすごいのです。更にそんな企業では、そこで働く従業員さんが夢を持って仕事に励むための快適な職場環境に対しても、色々な工夫を実践していると言われます。
私どもの事務所では、そんな知られざる元気の良い企業さんを紹介する「経営者の四季」、そして営業、経理、労務といったあらゆる分野の業務に関する情報や工夫を提案する「マネジメント・レターP!」を毎月顧客の皆様に提供しています。
それは言うまでもなく、自ら考え出すアイディアを駆使してそれを提供し、そのアイディアがお客様に受け入れられたときの達成感がやりがいのある仕事そのものであり、その達成感を得るための工夫を凝らす大切さを皆さんに感じていただきたいからなのです。
この情報誌に書かれていることは決して理想なんかではありません。現に実践し、成功しているお仲間がいることを知っていただき、そして何か一つでもお仕事のお役に立つよう有効に活用していただければ幸いです。
「お父さ~ん また取れちゃったよ~」
数日後、風呂場から情けない息子の声がまた響いた
「やっぱダメか~・・・ ン? 何だ吸盤が外れただけじゃないか」
「最近これすぐ取れちゃうんだよ」
「そうか・・・じゃ明日もっといい吸盤買ってくるわ」
「・・・だからちゃんと直した方がよくね?」
我が家の風呂の取っ手は、カミさんのアイディアで今も健在である。
吸盤はより強力な3個目となったが・・・
2008年3月29日
モラル
「どうだった?」
「おおー 一発合格! しかも満点! どうよ~」
「エーッすごいじゃん!・・・でも満点ってどうして分かるの?」
「帰るとき点数聞いたら教えてくれた やっぱ俺って天才?」
「そんなの社交辞令でしょ、でもお父さんは学科1回落ちたもんネーッ」
「ウッソー! マジー? ありえネエ・・・」
(母子二人で盛り上がってりゃいいのにこっちに振るな)
「あの頃は毎日バイトに追われててなぁ、お父さんも忙し・・・」
「さっそく車見に行かなきゃね、日曜日にでも行っといで!」
「ウン お父さん今度の日曜空いてる?」
「・・・ああ・・・たぶん」
(振っといて人の話は全然聞かねーし このB型母子は・・・)
就職を間近に控えた次男がこの春休みにせっせと自動車学校に通い、(本人曰く)ストレートで運転免許を取ってきました。
私らの頃とは違い、今はほとんどの高校が3年生の進路が決まるまでは自動車学校に通ってはいけないというルールがあるらしく、おまけにウチの息子は2月生まれで誕生日を過ぎないと実地教習が受けられないので、期間的には多少厳しい状況ではありました。しかし彼は就職の必須条件である運転免許取得のために、(やはり本人曰く)これまで生きてきた中で一番必死に勉強した(遅い!)とのことです。
その日母親の車を借りて初めて一人で町に出た息子が、夕飯時に交差点での優先順位やらフロントパネルに付いている色々なオプションの機能や使い方などを私に訊いてきました。
彼は教習所を出たばかりなので、もちろん知識としての優先順位は分かっています。しかし実際走ってみたら、それがまったく通用しなかったらしく混乱したようです。
「近頃そういう車が多いから十分注意しなさい」などと息子に答えているうちに、私は自分が車で走っているとき最近本当によく感じる「何でそうなの?」という話をしていました。
後先考えずに交差点の真中に停車する(停車しちゃった)
前が詰まっていても道を譲らない(何があっても前には入れさせない)
完全に赤信号に変わっているのに突っ切る(逆にスピードを上げる)
スペースも考えずにその場で車を停める(そこに停めるから渋滞ができる)
横断歩道で子どもが手を上げていても停まらない(誰かが停まってくれる)
行き先を探しながら道の真中をノロノロ運転する(分からないから仕方ない)
etc・・・etc・・・ まったくきりがない
もちろん車の流れを遮ってまで、いつでも他人優先でなんてことは言いませんが、逆にその車の流れを遮るような、今風に言うと空気を読めない輩が何と多いことかと皆さんは感じませんか?
ここ信州はただでさえ運転マナーが悪い地域としてよく名前が挙がります。私は公安の回し者でも聖人君子でもありませんが、毎日見る世間の運転事情に「我先に」「俺が俺が」「自分さえよければ」という風潮を強く感じます。
それは、単に運転マナーの悪さが気に入らないという話ではないのです。
人の心が、周囲にはほとんど目を向けない、気配りのできない、利己主義な自己愛護精神を強く持つ傾向に向かっているように思えてならないのです。
核家族化や少子化といった生活環境の変化を背景に、人の生活は守るべきスクラムの輪がどんどん小さくなっています。そして小さい分だけ目と心は内へ内へと向けられて、果たすべき責任や判断の基準も独りよがりになり、許容心、包容力といった人格的な懐は、悲しいかな本当に狭くなっている気がします。
モラルとは、一般的に倫理感、道徳心のことを指し、そして倫理とは『人として守るべき道、善悪・正邪の判断における普遍的な基準』と説かれます。
後を絶たない幼児虐待やいじめ問題、DVに無差別殺人など、モラルの低下、いや劣化が引き起こす悲惨な事件を、私たちは「まただよ、やだね~」と別の世界のことのように感じています。しかし、車の運転一つとってみても、私たちの心の内側には、その当事者と同じような壊れかけたモラルが存在しているのかもしれません。
重要なのは、自分の中でそんな壊れかけたモラルが顔を出したときに、自らそれに気が付き、それを素直に受け止め、そこで心を整えられるような人間力を身につけることだと思います。
「あの・・・お父さん・・・」
免許を取って2週間、息子が嫌なトーンで声をかけてきた
「今日お母さんの車をウチの駐車場に入れようとしたとき
迎いの家のフェンスにこすっちゃって・・・ボンネットが・・・」
(や、やっぱり・・・)
「も…もう?」
「ごめんなさい!」
「う~ん」
怒らない怒らない
親としてしっかりしたモラルを持って対応せねば・・・ クーッ辛い
「おおー 一発合格! しかも満点! どうよ~」
「エーッすごいじゃん!・・・でも満点ってどうして分かるの?」
「帰るとき点数聞いたら教えてくれた やっぱ俺って天才?」
「そんなの社交辞令でしょ、でもお父さんは学科1回落ちたもんネーッ」
「ウッソー! マジー? ありえネエ・・・」
(母子二人で盛り上がってりゃいいのにこっちに振るな)
「あの頃は毎日バイトに追われててなぁ、お父さんも忙し・・・」
「さっそく車見に行かなきゃね、日曜日にでも行っといで!」
「ウン お父さん今度の日曜空いてる?」
「・・・ああ・・・たぶん」
(振っといて人の話は全然聞かねーし このB型母子は・・・)
就職を間近に控えた次男がこの春休みにせっせと自動車学校に通い、(本人曰く)ストレートで運転免許を取ってきました。
私らの頃とは違い、今はほとんどの高校が3年生の進路が決まるまでは自動車学校に通ってはいけないというルールがあるらしく、おまけにウチの息子は2月生まれで誕生日を過ぎないと実地教習が受けられないので、期間的には多少厳しい状況ではありました。しかし彼は就職の必須条件である運転免許取得のために、(やはり本人曰く)これまで生きてきた中で一番必死に勉強した(遅い!)とのことです。
その日母親の車を借りて初めて一人で町に出た息子が、夕飯時に交差点での優先順位やらフロントパネルに付いている色々なオプションの機能や使い方などを私に訊いてきました。
彼は教習所を出たばかりなので、もちろん知識としての優先順位は分かっています。しかし実際走ってみたら、それがまったく通用しなかったらしく混乱したようです。
「近頃そういう車が多いから十分注意しなさい」などと息子に答えているうちに、私は自分が車で走っているとき最近本当によく感じる「何でそうなの?」という話をしていました。
後先考えずに交差点の真中に停車する(停車しちゃった)
前が詰まっていても道を譲らない(何があっても前には入れさせない)
完全に赤信号に変わっているのに突っ切る(逆にスピードを上げる)
スペースも考えずにその場で車を停める(そこに停めるから渋滞ができる)
横断歩道で子どもが手を上げていても停まらない(誰かが停まってくれる)
行き先を探しながら道の真中をノロノロ運転する(分からないから仕方ない)
etc・・・etc・・・ まったくきりがない
もちろん車の流れを遮ってまで、いつでも他人優先でなんてことは言いませんが、逆にその車の流れを遮るような、今風に言うと空気を読めない輩が何と多いことかと皆さんは感じませんか?
ここ信州はただでさえ運転マナーが悪い地域としてよく名前が挙がります。私は公安の回し者でも聖人君子でもありませんが、毎日見る世間の運転事情に「我先に」「俺が俺が」「自分さえよければ」という風潮を強く感じます。
それは、単に運転マナーの悪さが気に入らないという話ではないのです。
人の心が、周囲にはほとんど目を向けない、気配りのできない、利己主義な自己愛護精神を強く持つ傾向に向かっているように思えてならないのです。
核家族化や少子化といった生活環境の変化を背景に、人の生活は守るべきスクラムの輪がどんどん小さくなっています。そして小さい分だけ目と心は内へ内へと向けられて、果たすべき責任や判断の基準も独りよがりになり、許容心、包容力といった人格的な懐は、悲しいかな本当に狭くなっている気がします。
モラルとは、一般的に倫理感、道徳心のことを指し、そして倫理とは『人として守るべき道、善悪・正邪の判断における普遍的な基準』と説かれます。
後を絶たない幼児虐待やいじめ問題、DVに無差別殺人など、モラルの低下、いや劣化が引き起こす悲惨な事件を、私たちは「まただよ、やだね~」と別の世界のことのように感じています。しかし、車の運転一つとってみても、私たちの心の内側には、その当事者と同じような壊れかけたモラルが存在しているのかもしれません。
重要なのは、自分の中でそんな壊れかけたモラルが顔を出したときに、自らそれに気が付き、それを素直に受け止め、そこで心を整えられるような人間力を身につけることだと思います。
「あの・・・お父さん・・・」
免許を取って2週間、息子が嫌なトーンで声をかけてきた
「今日お母さんの車をウチの駐車場に入れようとしたとき
迎いの家のフェンスにこすっちゃって・・・ボンネットが・・・」
(や、やっぱり・・・)
「も…もう?」
「ごめんなさい!」
「う~ん」
怒らない怒らない
親としてしっかりしたモラルを持って対応せねば・・・ クーッ辛い
2008年2月29日
結論が先!
「お前免許の更新行ったの?」
前々から冷蔵庫の扉に貼ってあったカミさんの免許更新の案内のことが気になって訊いてみた
「今日おじいちゃんがさ~お昼食べに行くって言い出して、もう忙しいのに山形村まで乗せて行ってきたんだよ。最近急に思い立って電話してくるからホント困っちゃう・・・それにおばあちゃんも寒い寒いってまったく・・・」
「あのさ、その話は後でゆっくり聴くけど
俺はね免許の更新に行ったかどうかって訊いてんだよ?」
(まったく先に結論を言えよ結論を)
「だから行けなかったって~」
(話聞いてりゃ分かるでしょ)
「“だから”って何“だから”って、誰も理由なんて訊いてないでしょ」
(そういうのを余計な言い訳っていうんだよ)
「ハイハイハイハイ・・・分かった分かったどうもすんませんね!」
(あーうるさいオヤジ)
永い夫婦にありがちな(腹に一物の)ジャブの応酬となってしまった・・・
さて、今月2月は皆さんもご承知とは思いますが、確定申告のピークで事務所は最繁忙期に突入しており、おかげ様で私たちも毎日ヒーヒー言いながら遅くまで仕事をさせてもらっています。
従って、昨年のこの時期は、その忙しさにかまけてコラムを更新できませんでした。今回も危なかったのですが、ラッキーなことに今年は閏年で2月がいつもより1日多いのが功奏し、何とかギリギリ更新することができそうです
と・・・これを言い訳といいます。
「どうして?」と誰かに聞かれたわけでもなく、しかも、忙しかろうが遅くまで仕事をしていようが、そんなことは他人にはまったく関係のないことなんですね。一般的に「言い訳」というのは相手にとってはあまり聞きたくもない、自慢話の次に耳障りなものかもしれません。
しかし、私たちは普段話をするとき、実はこういった自分勝手な言い訳を中心に会話をしていることが意外と多いことにお気づきでしょうか。私を含め世の中のほとんどの人は、自分が責められる立場になることが苦手なので、自分を守るため、或いは自分は悪くないという立場に持っていくための言い訳を無意識のうちに探してしまう傾向があるようです。話の中で「自分だって」とか「私なんか」などの言葉をよく発する人は、特にその傾向が強いとも言われます。まあ気持ちは分かりますが、こういった傾向が習慣化してしまうと、場合によっては単なる言い訳が「嘘」に発展することもありとても怖いことです。
ビジネスの世界では、言うまでもなくこの傾向が強い人は致命的です。顧客のために企業として動く上では、それこそ一個人の「言い訳」なんかはまったく不要で、できなかった「原因」を分析して再発を防止することが最優先されなければなりません。厳しいようですが、個人的な事情や理由ばかりを主張してしまう傾向が強いと、周囲からの信頼を得ることも、能力を認められることも難しいのではないかと思います。
「まず結論を先に言いなさい。理由は『どうして』って聞かれたら言えばいい」
つまらない「言い訳」がすぐに口を突いて出ないように、私が家族にいつも言うことです。 勿論私もそうしようと意識しています。「結論を先に言う」ことは、聞かれたことに真っ直ぐに答えるということです。日常の会話を振り返ってみると、最初から理由は分かっていたり、それは二の次ということが結構あるように思います。家庭や職場でのちょっとした争いや誤解は、言わなくてもいい言い訳が原因ということもよくあるのでないでしょうか。
先ずは結論をはっきりさせることが、スムーズな会話の成立と、すっきりと次のステップに進む意識に繋がるのではないかと私は思います。
先日学校から帰宅した娘がモジモジと話しかけてきた
「お父さん・・・今日部活の準備してるときに友達とぶつかっちゃってさ~
別にふざけてたわけじゃないけど相手の足がまともにここに当たったもんだからジャージのポケットに入れてたiPodのイヤホンの先が折れちゃって・・・
アタシ買いに行く時間ないから・・・」
「それって『イヤホン買って下さい』だけで終わる話だろ!」
・・・なかなか難しい
前々から冷蔵庫の扉に貼ってあったカミさんの免許更新の案内のことが気になって訊いてみた
「今日おじいちゃんがさ~お昼食べに行くって言い出して、もう忙しいのに山形村まで乗せて行ってきたんだよ。最近急に思い立って電話してくるからホント困っちゃう・・・それにおばあちゃんも寒い寒いってまったく・・・」
「あのさ、その話は後でゆっくり聴くけど
俺はね免許の更新に行ったかどうかって訊いてんだよ?」
(まったく先に結論を言えよ結論を)
「だから行けなかったって~」
(話聞いてりゃ分かるでしょ)
「“だから”って何“だから”って、誰も理由なんて訊いてないでしょ」
(そういうのを余計な言い訳っていうんだよ)
「ハイハイハイハイ・・・分かった分かったどうもすんませんね!」
(あーうるさいオヤジ)
永い夫婦にありがちな(腹に一物の)ジャブの応酬となってしまった・・・
さて、今月2月は皆さんもご承知とは思いますが、確定申告のピークで事務所は最繁忙期に突入しており、おかげ様で私たちも毎日ヒーヒー言いながら遅くまで仕事をさせてもらっています。
従って、昨年のこの時期は、その忙しさにかまけてコラムを更新できませんでした。今回も危なかったのですが、ラッキーなことに今年は閏年で2月がいつもより1日多いのが功奏し、何とかギリギリ更新することができそうです
と・・・これを言い訳といいます。
「どうして?」と誰かに聞かれたわけでもなく、しかも、忙しかろうが遅くまで仕事をしていようが、そんなことは他人にはまったく関係のないことなんですね。一般的に「言い訳」というのは相手にとってはあまり聞きたくもない、自慢話の次に耳障りなものかもしれません。
しかし、私たちは普段話をするとき、実はこういった自分勝手な言い訳を中心に会話をしていることが意外と多いことにお気づきでしょうか。私を含め世の中のほとんどの人は、自分が責められる立場になることが苦手なので、自分を守るため、或いは自分は悪くないという立場に持っていくための言い訳を無意識のうちに探してしまう傾向があるようです。話の中で「自分だって」とか「私なんか」などの言葉をよく発する人は、特にその傾向が強いとも言われます。まあ気持ちは分かりますが、こういった傾向が習慣化してしまうと、場合によっては単なる言い訳が「嘘」に発展することもありとても怖いことです。
ビジネスの世界では、言うまでもなくこの傾向が強い人は致命的です。顧客のために企業として動く上では、それこそ一個人の「言い訳」なんかはまったく不要で、できなかった「原因」を分析して再発を防止することが最優先されなければなりません。厳しいようですが、個人的な事情や理由ばかりを主張してしまう傾向が強いと、周囲からの信頼を得ることも、能力を認められることも難しいのではないかと思います。
「まず結論を先に言いなさい。理由は『どうして』って聞かれたら言えばいい」
つまらない「言い訳」がすぐに口を突いて出ないように、私が家族にいつも言うことです。 勿論私もそうしようと意識しています。「結論を先に言う」ことは、聞かれたことに真っ直ぐに答えるということです。日常の会話を振り返ってみると、最初から理由は分かっていたり、それは二の次ということが結構あるように思います。家庭や職場でのちょっとした争いや誤解は、言わなくてもいい言い訳が原因ということもよくあるのでないでしょうか。
先ずは結論をはっきりさせることが、スムーズな会話の成立と、すっきりと次のステップに進む意識に繋がるのではないかと私は思います。
先日学校から帰宅した娘がモジモジと話しかけてきた
「お父さん・・・今日部活の準備してるときに友達とぶつかっちゃってさ~
別にふざけてたわけじゃないけど相手の足がまともにここに当たったもんだからジャージのポケットに入れてたiPodのイヤホンの先が折れちゃって・・・
アタシ買いに行く時間ないから・・・」
「それって『イヤホン買って下さい』だけで終わる話だろ!」
・・・なかなか難しい
2008年1月14日
メッセージ(言霊 ~ことだま~)
♪散り際に~もう一度~開く花びらはあなたのように~♪
聞こえない~ガンバレを~ 握った両手に何度もくーれた~♪
亡き母を思い、綴った詩だなんて聞いてしまうと
ますます感情移入してしまう
熱燗を飲りながらほろ酔い加減で、年末恒例紅白歌合戦の
次々に出てくる歌い手さんの評論を親子でやり合っていたが
さすがにコブクロの二人が「蕾」を熱唱している間は
誰一人声を発することはなかった
隣のカミさんは酔いに任せてサブいぼを出し涙ぐんでいる
レコードがなくなった現代でもレコード大賞とはこれいかに・・・
それはともかく、いやー確かにいい歌だー 言霊が伝わってくるねー
新しい年2008年が始まりました。皆さん、今年も相変わらずよろしくお願いいたします。
さて、当然もうお気付きとは思いますが、事務所のHPが全面的にリニューアルして、このコラムを見つけるのにも一苦労されたかもしれませんね。
このHP、いかがでしょうか?ひょっとして難しい文章ばかりで以前にも増して分かりにくくなってしまいましたか?(笑)
いやいやこっちが笑ってる場合じゃないですね。
皆さん、面倒かもしれませんが、リニューアルしたこのHPで、我々の仕事の存在価値を「安心」というワードをモチーフに展開したすべてのカテゴリーにどうか一度目を通してみて下さい。そこにはこれまで多くの企業を見てきた当事務所のスタッフ全員が、それぞれに受け持ったカテゴリーで、誠心誠意企業経営者の皆さんに伝えたいメッセージを込めました。
悲しいかな私たちの言ったり書いたりする文言は、法や数字という融通の利かない媒体をベースに表現されることが多いので、どうしても難解で画一的な印象を与えます。それは職制上ある程度仕方のないことだと割り切ってはいますが、しかし法も数字も単なるツールでしかありません。企業経営も、それを支援する私たちの仕事も、結局は人間が営むことに変わりはないのです。そして今年、私たち川崎会計事務所のスタッフは、顧客の皆様の企業経営を支援するために、言霊を感じていただけるような誠意を込めたメッセージを本気で伝えていきたいと考えています。まず最初にその思いを表現したのがこのホームページだと受け止めていただければ幸いです。
今年高校を卒業するサッカー小僧のウチの次男が就職することを決めました。
進学することが当然のような現在、多くの知り合いが「えっ?」と驚きました。
17年間息子を見てきたオヤジとしては予想通りでしたし、また初めから彼の意思を尊重するつもりでいました。社会に出て、高卒と大卒の違いで苦労するのであれば、思い切り苦労すればいいというのが私の判断です。無責任と思われる方も多いと思いますが、社会が学歴で渡っていけるほど甘くないことは周知の事実です。要は、人間いつ本気になるかということだけだと私は思います。
「仕事って何のためにすると思う?」
アルバイトから帰った息子に聞きました
「・・・自分と会社・・・のため?」
息子はツッコミに対する模範的なボケを返してくれました
「いや違う! 仕事ってのはお客様と社会に貢献するためにあるんだよ」
「ふ~ん・・・ “コーケン”って何だっけ?」
「・・・」
これからがマジ大変です・・・
HPはリニューアルしましたが、今年もこのコラムに限っては、人間くさいこんな家族ネタ中心で行きたいと思いますので、何卒ご愛顧のほどよろしくお願いいたします!
聞こえない~ガンバレを~ 握った両手に何度もくーれた~♪
亡き母を思い、綴った詩だなんて聞いてしまうと
ますます感情移入してしまう
熱燗を飲りながらほろ酔い加減で、年末恒例紅白歌合戦の
次々に出てくる歌い手さんの評論を親子でやり合っていたが
さすがにコブクロの二人が「蕾」を熱唱している間は
誰一人声を発することはなかった
隣のカミさんは酔いに任せてサブいぼを出し涙ぐんでいる
レコードがなくなった現代でもレコード大賞とはこれいかに・・・
それはともかく、いやー確かにいい歌だー 言霊が伝わってくるねー
新しい年2008年が始まりました。皆さん、今年も相変わらずよろしくお願いいたします。
さて、当然もうお気付きとは思いますが、事務所のHPが全面的にリニューアルして、このコラムを見つけるのにも一苦労されたかもしれませんね。
このHP、いかがでしょうか?ひょっとして難しい文章ばかりで以前にも増して分かりにくくなってしまいましたか?(笑)
いやいやこっちが笑ってる場合じゃないですね。
皆さん、面倒かもしれませんが、リニューアルしたこのHPで、我々の仕事の存在価値を「安心」というワードをモチーフに展開したすべてのカテゴリーにどうか一度目を通してみて下さい。そこにはこれまで多くの企業を見てきた当事務所のスタッフ全員が、それぞれに受け持ったカテゴリーで、誠心誠意企業経営者の皆さんに伝えたいメッセージを込めました。
悲しいかな私たちの言ったり書いたりする文言は、法や数字という融通の利かない媒体をベースに表現されることが多いので、どうしても難解で画一的な印象を与えます。それは職制上ある程度仕方のないことだと割り切ってはいますが、しかし法も数字も単なるツールでしかありません。企業経営も、それを支援する私たちの仕事も、結局は人間が営むことに変わりはないのです。そして今年、私たち川崎会計事務所のスタッフは、顧客の皆様の企業経営を支援するために、言霊を感じていただけるような誠意を込めたメッセージを本気で伝えていきたいと考えています。まず最初にその思いを表現したのがこのホームページだと受け止めていただければ幸いです。
今年高校を卒業するサッカー小僧のウチの次男が就職することを決めました。
進学することが当然のような現在、多くの知り合いが「えっ?」と驚きました。
17年間息子を見てきたオヤジとしては予想通りでしたし、また初めから彼の意思を尊重するつもりでいました。社会に出て、高卒と大卒の違いで苦労するのであれば、思い切り苦労すればいいというのが私の判断です。無責任と思われる方も多いと思いますが、社会が学歴で渡っていけるほど甘くないことは周知の事実です。要は、人間いつ本気になるかということだけだと私は思います。
「仕事って何のためにすると思う?」
アルバイトから帰った息子に聞きました
「・・・自分と会社・・・のため?」
息子はツッコミに対する模範的なボケを返してくれました
「いや違う! 仕事ってのはお客様と社会に貢献するためにあるんだよ」
「ふ~ん・・・ “コーケン”って何だっけ?」
「・・・」
これからがマジ大変です・・・
HPはリニューアルしましたが、今年もこのコラムに限っては、人間くさいこんな家族ネタ中心で行きたいと思いますので、何卒ご愛顧のほどよろしくお願いいたします!
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