2012年5月31日

「母の日」だけは

『いつもありがとう! とってもおいしいワイン贈ります!』

長男からのメールを嬉しそうに覗き込むカミさん

「ワイン贈ってくれるって~ (^o^♪ 」

「あら そう・・・みんな優しいね~ (;一_一) 」

3日ほど前には次男からカーネーションのフラワーバスケットが贈られていた

娘からは『何も贈らないけど感謝してますから』などと娘らしいメールが届いていたようだ

「母の日」は毎年皆かいがいしく感謝の気持ちを届けて来るが、何故に「父の日」は雑な扱いをされるのかどうにも納得できない。

どこの家庭もそうなのだろうか ひょっとしてウチだけ? クソー!! 悔しぃー!! 


すみません 取り乱しました・・・さて、5月の第2日曜日はご存知の通り「母の日」

そもそも何故「母の日」なるものができたのかは色々な説があるようだが、現在のような「母の日」になったのは、20世紀初めのアメリカでアンナ・ジャービスという女性が起こしたある行動がきっかけなのだそうである。

1907年5月12日の第2日曜日、彼女は自分を慈しみ育ててくれた最愛の母アン・ジャービスの命日だったこの日、母親が生前日曜学校の講師をしていたフィラデルフィアの教会で、花言葉が“亡き母を偲ぶ”という白いカーネーションをたくさんたむけて母親に感謝の意を捧げる会を行った。

彼女の行為は会の参列者に大きな感動を与え、翌1908年5月10日の第2日曜日には同教会に470人の生徒とその母親達が集まり、初めて「母の日」と謳ってその日を祝ったという。

それを期にアンナは支援者らとともに、母への感謝の気持ちを捧げる祝日を作るよう州議会に呼びかけた。やがてその声は大統領にまで届き、1914年アメリカ議会での協議の結果、5月の第2日曜日を「母の日」に制定し、国旗を掲げて母親に感謝の意を示す日とした。

こうして「母の日」は世界中へと広がり、日本に伝わったのは大正時代1920年頃と言われている。当時青山学院大学の客員教授だったアレクサンダー女史により紹介され、その後キリスト教関係の団体が中心となって日本中に広められたという。

そして昭和に入り一旦は3月6日の皇后誕生日を母の日と定めたが、戦後になってアメリカに倣い、日本でも5月の第2日曜日を正式に「母の日」とした。

当時、母親が健在な人は“母の愛”が花言葉の赤いカーネーションを、母親を亡くしてしまった人は白いカーネーションを胸に飾り、母親への感謝の気持ちを示すのが一般的だった。

そのうちに母に花を贈る人が徐々に増え、いつしか「母の日」にはカーネーションを贈るというスタイルが定番となっていたが、現代では母親の好きなものなどをプレゼントするのが主流となっている。


一方「父の日」はというと、こちらもアメリカのワシントン州に住むソノラ・スマート・ドッドという女性が、彼女を男手一つで育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったのがきっかけだと言われている。

ソノラが幼い頃勃発した南北戦争に父ウィリアムが召集され、彼女を含む子供6人を母親が一人で育てることになった。そして数年後に夫は復員したのだが、復員して間もなく母親が過労により亡くなってしまう。その後男手一つで6人の子どもたちを育てた父ウィリアムも、子どもが皆成人した後無念にも亡くなってしまった。

父が亡くなった翌年1910年6月19日の第3日曜日、ソノラはワシントン州の教会で父の栄誉を讃える会を行い、父親の墓前にたくさんの白いバラを供えた。こうして「父の日」のシンボルは白いバラになった。

そしてその2年ほど前からアメリカではすでに「母の日」が浸透していたため、ソノラは当然「父の日」もあるべきだと父に感謝する日を作るよう牧師協会へ嘆願したという。

それから50年以上の歳月が流れた1966年、当時のジョンソン大統領がやっとのことで6月の第3日曜日を「父の日」と定める大統領告示を発し、さらに6年後の1972年、ニクソン大統領時代に正式に国の記念日に制定されたのだという。

日本での「父の日」は1950年頃から広がり始め、現代のように正式に謳われるようになったのは昭和も後半の1980年代になってからだと言われている。


さて、お気付きのように「母の日」が提唱されてから僅か6年で正式に国の記念日に制定されたのに対し、「父の日」はその制定までに半世紀以上の歳月を要している。また日本での「父の日」の認知も「母の日」に遅れること60年である。

アメリカでのタイムラグは第二次世界大戦など、世界情勢の劇的な変遷の時代と重なったことや、当時のアメリカ議会が男性だけで構成されていたため、男性に都合が良過ぎる法案だと懸念されてなかなか可決しなかったことなどが背景にあるようだが、日本で「父の日」が認知されるようになった一番の原因は、デパートやスーパーの売り出しのネタに使われたことだとも言われている。

「父の日」が制定されるきっかけとなったドッド家のエピソードは素晴らしい話なのに、日本でのその認識レベルは何とも寂しいものだ、が・・・


仏教の世界に「与楽抜苦(よらくばっく)」という言葉がある。これもウチの事務所の顧問である高橋宗寛和尚の勉強会でお教えいただいた、私がとても好きな意味を持つ言葉だ。
(高橋和尚はコチラでhttp://dairicolum.blogspot.jp/2011/01/10.html)

もともとは仏や菩薩が衆生を苦しみから救い福楽を与えることをいうそうだが、親子の関係がまさにこの「与楽抜苦」であり、父と母の存在をそのままに表わす言葉でもある。



楽しみを与える「与楽」が父の存在、苦しみを抜く「抜苦」は母の存在だ。

遊びに連れて行ってくれて、楽しいことを何でも教えてくれるのはお父さん… 
病気になったときに看病してくれて、優しく添い寝してくれるのはお母さん…

どちらも子どもにとっては有難いことだろうが、やはり自分が苦しいとき辛いときに、その苦しみや辛さを傍にいるだけで解消してしまう母親の力には、おそらく我々父親なんてまったく敵わないだろう。

何といっても子どもは母の胎内で一年近く守られ、産まれて暫くは母親の栄養を分け与えられながら成長する、まさに母の分身そのものだ。

父と母のどちらが好きとか言う低次元の話ではなく、子どもが母親の存在を強く重く受け止めるのは人間として至極当然のことだと思う。もちろんそれでいいし、子どもたちにはそうであって欲しい。

その意味では「父の日」にはメールの一本もよこさないウチの子どもたちも、母親には毎年感謝の気持ちを伝えることを忘れずにしているので、「母の日」だけは良識ある子どもたちということにしてあげるとしよう。



「いいねぇ母親は・・・ みんなに大事にされて (-ヘ-*)」

「な~に~? ひがんでんの? ( 一o一)」

「別にぃ・・・ まあ良かったじゃん みんな優しい子で ^ ^」

「・・・だね(*^0^*) で? 来月は父の日をテーマに書くの?」

「それ・・・イヤミ? (T_T)」


2012年5月2日

結婚のかたち

「今月末に向こうの実家に行って 結婚のこと話してくるよ」

「そうか まあ親父さんにひたすら頭下げて認めてもらうんだな」

「うん・・・ そのつもり」

この連休 長男が彼女のご両親に結婚の承諾を得るために
先方のご実家のある鹿児島に赴くという

「自信持っていいぞ お前はいい男になった」

「・・・そう?」

「ああ このオヤジが言ってんだから間違いない 大丈夫だ」

「・・・そうか ありがとう!」

「男なら一度はみんな通る道だ 胸張ってしっかりやってこい!」

こんな時くらい 少しは背中を押してやらねばなるまいと
ちょっと脚色強めの褒め言葉を投げかけてやったのだった



子どもたちが結婚を意識する歳頃になり、その結婚というものを改めて親の目線から捉え、話をする機会がこのところやたら増えた。

私ら夫婦が結婚したのは今から27年前の1985年5月。以前このコラム(2010/09『アニバーサリー』)でも少し触れたが、その結婚のかたちは二人だけで式を挙げたハワイの教会から結婚証明書をいただくというものだった。当時は少数派だったと思うが、自分たちが普通の結婚披露宴というものを経験していないこともあって、私もカミさんもあまり結婚のかたち自体にはこだわりを持っていない。

だから最近よく聞く挙式も披露宴も行わずに籍だけ入れるかたちにしても、それが色々な事情を考慮した結果であればまったく構わないと思っている。

ただ、せめて花嫁さんになる女性の方は、色んな事情を考慮するその前に、先ずは自分の花嫁姿を両親に見せたいという気持ちは持っていて欲しい。人生でたった一度と言ってもいい本当の主役となる瞬間の晴れ姿を披露することは、それまで育ててくれたご両親に対する最高の親孝行であり恩返しであるからだ。結婚の披露式は自分たち二人のためだけにあるのではなく、両親のためにもあることをわきまえていることが必要だ。

その意味では、結婚を前提に付き合っている長男の彼女も次男の彼女も、二人とも花嫁衣裳を着たいと言っているとのことなので、そこは良かったと思っている。その披露の方法は自分たちの身の丈に合ったやり方が今はいくらでも選択できるのだから、先ずはそこからスタートして二人でどうするかを考えればいいのである。


そんな息子たちの結婚像を書き進めていたら、ちょうどテレビで現代の若者の結婚事情なる話題が取り上げられていた。

それは内閣府が昨年実施した結婚と家族形成に関する調査をまとめた「子育て白書(http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2011/23webhonpen/html/b1_s2-1-4.html)」からの情報だが、20代~30代の独身者を対象に調査したところ、将来結婚したいと考えている人は、男性が83%、女性が90%と高い割合ではあるものの、逆にそれ以外の男性17%と女性10%は、将来結婚するつもりはないと考えているのだという。

今から30年前、すなわち私らが結婚した1980年代の調査では、後者の割合は男性で5%、女性は僅か2%だったという。確かに21世紀になって雇用機会均等法など国の後押しもあり、ビジネスにおける男女較差はほとんどなくなって、今では女性でも生涯の仕事を持って男性以上に稼ぐ人がどんどん出現するような時代になっている。

女性にとって、結婚の価値観が人生の着地点を意味しなくなったことは事実である。

そして、この白書では将来結婚したいと考えている人の「結婚生活を送る上での不安」に関する調査結果も公表しているのだが、それによると男女ともに「経済的に十分な生活ができるかどうか心配」がトップでそれぞれ50%以上を占めている。

さらに読み進めてみると、男性は「配偶者と心が通わなくなるのではないか」など、結婚相手との関係性を不安視しているのに対し、女性は「配偶者の親族とのつきあい」「出産や子育て」「配偶者や自分の親の介護」など、家庭的な役割を果たすことへの負担をあげている人が非常に多いという結果が出ている。

結婚意欲はあっても、こうしたことが結婚に踏み出せない背景にあるようだ。


私らの親が家庭を築いた昭和前半は、女性が伴侶の家に嫁入りして同居するのが普通の結婚のかたちだった。大きな戦争を経て物のない貧しい時代だったと思うが、仮に亭主の稼ぎが少なくてもとりあえず住む家があり、親子支えあっての生活だから十分ではないにしろまったく飯が食えないということもなかっただろう。

私らが家庭を持った昭和後半は、新婚生活は安アパートなどを借りて夫婦二人で過ごし、子どもが学校へ上がる頃になったら亭主の実家に入って同居するというパターンが結構多かったように思う。時期はともかくいつかは同居がまだ当り前だった。

だが現代は、結婚するのであれば当然に別居して、自分たちだけの独立した経済世帯を成立させることが条件のようになっている。ウチの息子たちにしてもそうだが、自分だけの収入ではやっていけないから当然夫婦共稼ぎとなり、それが当分は子どもを持てない状況を生じさせる。20~30代男性の6人に一人、女性の10人に一人が結婚したくないというのも頷けないではない。

やはり現在日本が抱える少子化問題は、確実に若者の結婚難時代とリンクしており、賃金水準が一向に上がらない状況の中で、さらにこの負のスパイラルが深刻化するのではないかと懸念される。


結婚は他人同士が一つ屋根の下で長年寝食をともにする共同生活だから、気持ちがすれ違う時もあればぶつかり合う時もある。結婚当初私ら夫婦も経験したが、経済力の乏しさはお互いのストレスとなり、それがあらぬ諍いを引き起こす原因にもなる。そして、子どもを持てば持ったで自分たちの時間とお金のほとんどは、その養育のために費やすことになる。見方によってはこれらは結婚という行為がもたらす負の要素と言えるかもしれない。

しかし、私が結婚の好さについて一つだけ自分の経験から自信を持って言えることは、結婚によって誕生したかけがえのない家族一人一人が産み出す無数の喜びは、そんな鼻クソみたいにちっぽけな負の要素など簡単に吹っ飛ばすだけの途方もなくでっかい幸福を家族全員に与えてくれるということだ。

そして、そんな家庭作りこそが結婚することの価値だと私は思っている。



「鹿児島での話はどうだった?」

「初日早々に『結婚させて下さい』と話しました お義父さんから涙目で宜しくと言われました・・・二日目は熊本に連れて行ってもらったり、いっぱいご馳走になって、お義父さんと色んなことたくさん話しました・・・」

「そうか よかった・・・ これからだな!
 帰ったらゆっくり話聞かせてもらうよ」

いつもよりちょっと長めの長男のメールに 私は何故か涙がこぼれた